5 月 28

悩むことの健全さ

姜尚中氏は、在日韓国・朝鮮人二世で、東京大学大学院情報学環教授の政治学者。東大教授の中でも、きわめて特異な立場にいる姜尚中氏が、集英社新書から「悩む力」という本を出した。氏にしては珍しい「生き方本」だ。ビジネス本のタイトルではやりの「コミュニケーション力」「段取り力」「問題解決能力」「地頭力」等々にあやかってのネーミングかと一目見て思うが、注意しなければならない。おそらくそれとは正反対の計らいと考えるべきだろう。「悩む力」は、「ナヤムリョク」と読ませるのではなく、何もひねらず「ナヤムチカラ」と読むことが期待されているのだろう。類書と似ているようで、まったく違う。機知に富んだ皮肉が漂う。

僕は、姜尚中氏の講義を実際に受けたことがあるし、テレビ番組で拝見したこともある。姜尚中氏を知っている者ならだれでも、知性あふれる外見のスマートさと、スタイルの良さと、服のセンスの良さには溜め息を漏らすものだ。しかし、僕が注目するのは、氏の「声」だ。すべてを引き受けた人間が発する「声」。その声はかぼそく、慎重であるようでいて、奥底にある決意を聴衆に感じさせる。ファンが増えるのも無理はない。情熱=passionと冷静=coolが互いを主張しあうことなく一人の人間の内に共存している。僕は、姜尚中氏の話を聞いて、デューラーの描いた絵の素晴らしさを知ったし、ハンナ・アーレントの「人間の条件」に興味をもったし、エドワード・サイードの生涯に惹かれたのだった。姜尚中氏は、サイードを語るとき、いつも、サイードと自分との位置関係を確認しているようだ。先人と自分との距離を確かめることで、今の自分の方向性を調整する。そんな姿勢が見受けられる。

――最近は悩むことそのものが格好悪いという空気があるような気がしますね。

 みなさん、悩むことを不幸の種と考えているようだけど、これは不健全なことです。インターネットを見ても、「なぜあの人がああで私がこうなのか」「悩みのない人はむかつく、許せない」など、そういう情念の海が広がっています。でもね、僕は不健全だと思う。

 実はね、悩むことも喜び。そのことに気づかないとね、ダメだと思うんですよ。やっぱり悩まないと、自分というものが分からないし、自分にとって大切なものも分からない。今のような悩むことを是としない風潮が、今の閉塞感を生み出しているんじゃないでしょうか。悩みをくぐり抜けないと、生きる力や思考力、創造的なアイデアは出てこない。それで、こういう本を書こうと思ったんですね。
(日経ビジネスオンラインの記事を引用)

「悩むことは、決してネガティブなことではない。」と姜尚中氏は語る。最近の風潮では何かと、下のようなフローが成り立ってしまっているようで厄介だ。

悩む ⇒ 凹む or 落ち込む ⇒ 引き籠る or 一人で塞ぎこむ ⇒ 絶望する ⇒ 再起不能に陥る

しかし、そんなことはない。たとえば、思春期の悩みがそうだ。男の子なら、声が低くなったり、親に反発したくなったりする。女の子なら、顔にニキビができてきたりして、悩む。でも、悩みを抱えながらもなんとかやっていけることに次第に気づく。

悩む

①いたみ苦しむ。病む。

②苦しむ。こまる。思いわずらう。

③とやかく非難する。

④(他の動詞の連用形について)…に難儀する。…しかねる。

(広辞苑第六版より)

そもそもの「悩む」の意味は、「苦しむ」に相当するということだ。それも、苦しみには「痛み」が伴う。

(姜) 悩み抜いて、突き抜けると、人間は必ず“横着”になれる。横着になった時、意外と死ぬなんてばからしい、もっとこんな生き方をしてみようか、という考え方になるんじゃないでしょうか。ここで言う横着とは、「悩み抜いて怖いものがなくなる」という状況と同じと考えてもらっても構いません。

(日経ビジネスオンラインの記事より)

必要なのは、悩み抜くこと。有益な情報をいくら提示されても、自分で答えを探すことができなければ仕方がない。つまり、「自分で答えを出す」その瞬間は、人を頼りにすることができない。悩み抜くことは、言い換えれば、孤独を偲ぶことと同じなのかもしれない。僕は、日経ビジネスオンラインの記事しか見ていないが、本書のほうも購入して読みたいと思う。

思い起こされるのは、有名なこのコトバ。

健全なる精神は健全なる身体に宿る

(mens sana in corpore sano)(ローマの詩人ユウェナリスの「風刺詩集」から)身体が強健であってこそ精神も健全である。(広辞苑第六版より)

もしくは、英語では下の表現。

A sound mind in a sound body.

 

5 月 25

十人十色

ourselves

十人十色

人の好む所・思う所・なりふりなどが一人一人みんなちがうこと。(広辞苑第六版より)

十人十色といっても、じつのところ、バリエーションは限られていて、256色のうちのどれかを選択しているだけにすぎないのかもしれない。たとえば、ゴスロリは、ゴスロリになるべく日頃努力しているわけであって、いつのまにかなっていたというわけではないように。だから、基本となるコンポーネントはみんな一緒なんだと思う。

僕は、なんというか、イラストと故事成語・格言が好きらしいということがわかってきた。

5 月 22

モンテーニュが気になる

モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533-1592)が気になってきた。16世紀ルネサンス期にフランスに生きたモラリスト。Wikipediaで調べると、下のリンクを見つけた。モンテーニュの思想がコンプリートされている。ただし、英語。

The Complete Essays of MICHEL DE MONTAIGNE

Wikipediaより

Wikiquoteより引用。フランス語と併記されていてよい。

私は何を知っているのか(いや、何も知らない)。

Que sais-je?

世界でもっとも偉大なことは、己自身を知ることである。

La plus grande chose du monde, c’est de savoir être à soi.

偶然の出来事を調整することはできない。だから私は自分自身の身を修める。

Ne pouvant régler les événements, je me règle moi-même.

これは、引用するほかはありませんね。

ところで、ルネサンスの三大発明といえば、①活版印刷術、②羅針盤、③火薬ですね。現在進行中で起きている/起きてしまったIT革命に匹敵する発明が、当時のグーテンベルクの活版印刷術といわれています。それでは、現代の三大発明の残り二つは何なのでしょう?羅針盤がGPSに相当するとしても、GPSはIT革命の内に含まれるでしょう。携帯電話もIT革命の範疇。考えてみるのが面白いですね。

5 月 11

自殺について

硫化水素(H2S)による自殺件数が急増している。

  • 硫化水素自殺続発で硫黄商品を販売自粛 - 5月10日16時12分配信 産経新聞
  • 「ストップ!硫化水素自殺」=未遂経験者がイベント-ネットで配信・東京 - 5月10日5時31分配信 時事通信
  • 硫化水素発生方法 ネットで56件削除 - 5月9日8時2分配信 産経新聞

くわえて、女子中高生が殺傷されたり、学校でのいじめがメディアで報道されている。これまで、このような報道があると、僕は「ああ」と嘆息した。だが、近頃、事件がメディアで報道されると、どういうわけか(おそらくネットの情報源を介して、なにかが波及するのだろう)、同じような内容の事件が頻発する(僕はテレビは全くといって見ていないので、どのように報道されているかは知らない)。その顕著な例が、今回の硫化水素自殺だろう。これほど急増してしまうと、「ああ」とか「ええっ、また!?」とか「信じられない」とか言えなくなる。無言「……」。僕は、こういうセンシティブな話題について言及することはあまりしたくない。これまで避けてきた。それでも、伝えたいことがある。なので、それを文章にする。

NPO法人、自殺対策支援センター「ライフリンク」の代表、清水康之氏は、ブログで硫化水素自殺について以下のように記している。

確かに自殺の巻き沿いを食わされたらたまったもんじゃない。私もそう思う。
でも報道によると、亡くなったほとんどの人たちが「張り紙」をしていたらしいではないか。

「硫化水素発生中 入らないで下さい」
「毒ガス発生中 すぐに通報して下さい」
「危険 硫化水素発生中 絶対に開けないでください」など

社会に対するルサンチマンがあって不思議ではないのに、人生最後の言葉が「他者への警鐘」だなんて。なんという律儀さかと、あまりにも切なくなってくる。

また、QLife SQUAREというサイトは、硫化水素では楽に死ねないと警告する。

硫化水素は呼吸系に作用し細胞が呼吸できなくする。つまり直接死に至る原因は「窒息死」である。呼吸しようとして肺は動くのに息が出来ない状況を想像すれば、それがどれくらい苦しいか、想像できるだろう。市販の洗剤を混ぜて発生する程度のガスで、首尾よく短時間で即死するくらいの高濃度のガスが発生するとは限らない、数時間はもだえ苦しむ事を覚悟しなければならない。

たしかに、浴室のドアに張り紙を書いて注意を喚起することは、未来の遺体発見者を気遣ってのことだと思うが、自殺をこれからしようとする人間が、自分以外のことを考える余裕を持っているかは疑問だ。硫化水素中毒による自殺のどこが問題かというと、ネットで広まっている「楽に死ねる」という虚偽の情報と、「高濃度のH2Sガス」が周囲に拡散することによる一種の迷惑行為(公害、あるいはテロといっていいかもしれない)の二つだと思われる。Suicide-bomberとさほど変わらない。張り紙はだから、威嚇行為に相当するのではないか。

ところで、「どうして人を殺してはいけないの?」「なぜ自殺はよくないの?」という問いがある。「大切な人が殺されたり、親しい人が自殺したら、きみは悲しいだろう?だから、いけないんだよ。」と教えるとする。でも、これでは回答としては少々脆い。なぜなら、自分が相手を殺す立場、もしくは自分が死ぬ立場を想定してはないからだ。つまり、自分が人を殺したくなったり、自殺したくなったりしたとして、それでも、「どうしてだめなのか?」を説明しなくてはならない。事態はそこまで切迫している。しかも、自殺したくなる願望の背景には、鬱病などの精神疾患や薬物による中毒、すなわち、(語弊はあるが)狂気が介在していることが多い。つまり、論理による説得が通用しない。どうしても自殺してほしくなかったら、物理的に身動きをできなくしたうえ、四六時中監視するしかあるまい。「どうしてだめなのか?」そんなことは、僕にも分らない。

人生に意味なんてないさ。――そんな事はニーチェが19世紀のとっくの昔に云っている。でも、だからといって、「意味のない人生」を自分の手によって中断してしまってよいのか。

かりに、「死にたくなるとき」があったとして、つねに「死にたい死にたい死にたい」と思っているかというと、実はそうでもないかもしれない。そのときのムード=モードによって、人間の行動基盤は刻一刻と変化する。気分を変えてあげることで、相手を深刻に悩ませないようにする。自殺させないための努力。『波状言論S改』での、宮台真司と東浩紀の対談で、宮台真司はこのように語っています。人間はそんなにヤワではないのだから、言葉によるアドバイスではなく、気分を変えさせるように行動する。なかなか良い方法ではないかと思う。

さて、「どうして自殺はだめなのか?」について。僕の考え。日本語の「生きる」は自動詞であり、「生きている」は、状態動詞です。つまり、僕たちは、自動的に「生きる」のです。「生きる」上での支えはもちろん必要で、「生かされる」というのもある意味では事実です。でも、僕たちの生命は誕生以来、オートマチックで居続けました。ですから、「みんな、生きているのが、不思議なくらい当たり前だよね。」というのが回答、でいいのかな?

とにかく、天寿を全うするまで生きる。死ぬその時まで。ひとまず、Story Of The Yearの”Until the day I die”をお聴きになさったら?

5 月 08

選挙のゆくえ

Barack Obama - Santa Fe Art District, originally uploaded by Seetwist.

ノースカロライナ州での圧倒的な勝利で、民主党(Democratic Party)の大統領候補指名争奪戦もついに終局に入った模様です。《CHANGE》を絶えず訴え続けるObamaが、学生たちをはじめ、若者に熱烈に支持されるのは、やはり、明快でわかりやすいという理由があると思います。YouTubeにアップロードされているビデオを見ても、Obamaの演説は非常に説得力があります。とにかく、現実を「変えたい/変えてほしい/変えるべきだ/変えなくてはならない」と考えているアメリカ国民がそれだけ多くいるのでしょう。

ガンバレ、Obama!!

BGMには…、Radioheadの”Electioneering”をどうぞ!!

5 月 06

1 year ago

生まれてきて20余年の僕の人生には、生身で接した、恩人というべき人たちが何人か存在する。

そのなかでも、生き方、知識の身につけ方と文章の書き方、そして、世界の広げ方について強烈なインパクトを与えてくれた人がいる。それは、ノンフィクション作家・評論家の立花隆氏だ。僕が立花氏と会うことになったきっかけは、東大駒場の1・2年生向けに2005年から開講された全学自由研究ゼミナール、「先端研究現場へ行こう(=立花隆ゼミ)」だった。僕が実質在籍していたのは、2005年10月から、2006年9月くらいまでで、いろんな研究室を訪問したり、記事を書いたり、講演会で話を聞いたり、ウェブサイトを作ったり、等々、考え付いた範囲でありとあらゆることをした。立花氏のもとに集まってきた、僕と同世代の学生20-30名は、そこらのサークルやバイトではあまりあるほどの、好奇心と情熱をもっていて、毎回ゼミの集まりがある水曜の夜は、遅くまで議論がヒートアップした。活動は休日におよぶこともあり、駒場のオープンラボラトリーにゼミ室を設けて、行けば必ず誰かいるというようなスペースもかつて存在した。知的な刺激にあふれた数ヶ月間だった。駒場を離れ、ゼミの活動に関与する機会がなくなってからも、ゼミの友人との付き合いは途絶えていない。

立花氏と個人的に親密な関係になっていった者も数名いた。おそらくは、僕もその中の一人に含まれることだろう。文京区小石川に、ネコビルという名前の、黒塗りのコンクリートの壁に猫のあたまが描かれた建物がある。それが、立花隆事務所だ。立花氏に直接会ったり、文章を書いてもらったりする必要があるとき、立花ゼミ生は、ネコビルを訪れる。そこは、<知の巨人>立花隆の作業場だ。地下1階から地上3階まで、あらゆる分野とあらゆる時代の本が惜しみないほど蓄えられている。数えても、きりがない。しかも、ネコビルにある本は、つねに殖えている。さまざまな出版社あるいは著者からの献本と、新しく購入された本によって。「生きている本棚」や「本のために存在するビル」というのがあることをはじめて知った。

タイトルの”1 year ago”について書くことにしよう。一年前の2007年5月6日にしたことが、手帳に残っている。僕は立花事務所に行っていた。その日の午前中は雨がたいそう降っていて、僕は飲食店のバイトを終えた後、秋葉原のSofmapでacerの22インチワイド液晶ディスプレイと、PanasonicのSDオーディオプレイヤー”D-snap”と、ASUSのグラフィックボードを買った。雨の日オプションというものを利用したので、液晶ディスプレイについては配達料が無料だった。それから、上野まで歩き、マルイシティ上野店の地下2階にあるGAPでチノパンを買い、上野東急というこじんまりした映画館で、レオナルド・ディカプリオが主演している”BLOOD DIAMOND”を見て、それなりに感動した。映画館を出て、歩いていると、立花氏本人から携帯に電話があり、立教大学の大学院の21世紀社会デザイン科の人が話を聞きたがっているので、これからネコビルに来ないかと言われた。僕は立花氏に行くことが可能であると伝え、上野から小石川まで30分くらいかけて歩いた。僕がよばれたのは、ネコビルではなくて、ネコビルの向かいにある柏木ビルだった。そこも、立花氏が物書きの仕事のために間借りしている。立花氏とゼミ生だったSくん、それに名前は忘れてしまったが、立教の学生さん2人がそこにはいた。立教の方たちも、立花氏が主宰する別のゼミに所属していて、立花さんを取材したいので、ビデオ録画の方法と、編集の仕方と、ウェブサイトへの載せ方を僕に教えてほしいということだった(僕は動画編集の専門的知識は持っていないが、立花氏の取材に同行してビデオ撮影をしたことがあった)。その場で取材は行われた。その時の様子が、Google Videoに投稿されているので、リンクしてみたい。

質問 - 今の若者について感じることは?

質問 - 立花さんが一番楽しい時は?

質問 - 生まれ変われたとしたら何になりたいですか?

その日はそれから、立花氏とSくんと近くのジョナサンで食事をしながら、いろいろしゃべり明かし、立花氏と別れてから、僕とSくんは、当時ゼミの幹事をしていたKくんの住むマンションまで歩いた。そういう一日だった。立花氏については、また詳しく書いてみたいと思う。

4 月 26

Ars longa, vita brevis

次のHippocratesの箴言はあまりにも有名です。

Life is short, the Art long, opportunity fleeting, experiment treacherous, judgement difficult.

(translation by Dr. W.H.S. Jones, cited from LOEB Classic Library “Hippocrates VOL IV”)

”Ars longa, vita bravis”は、ラテン語。Hippocratesが実際に発した言葉は、ギリシャ語なので、”Ὁ βίος βραχύς, ἡ δὲ τέχνη μακρή”と声に出したはずです。”Life is short, the Art long”は、「少年老い易く、学成り難し」に相当しますが、「Art」と「学」はやや意味合いが異なると思います。

上は、アメリカのTVドラマGrey’s AnatomyでテーマソングになったButterfly Boucherの”Life Is Short”。Butterfly Boucherはオーストラリア出身のシンガーソングライター。すごくいい曲が多くて、最近よくきいています。Shrek 2でも曲が使われました。

Grey’s Anatomyというタイトルは、Anatomyの教科書の中で最も伝統ある大著、Gray’s Anatomyをそのままもじったもの。いまseason IVをABC局で放映中。TSUTAYAで昨日借りたので、見てみようと思います。

最後に、YouTubeで見つけた、XBOXのコマーシャル。”Life is short, play more”ということらしいです。

4 月 15

引用メモ4

Windows Vistaが値下げらしいですね。

今回はショーペンハウエルを取り上げてみます。「知性について」は本当に薄い本なので、読みやすいです。

「知は力なり。」とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、すこしも力をもっていない人もあるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の威力を揮う人もある。

自分でおこなった貴重な考察は、できるだけ早く書きとめておくべきである。

ブログ肯定と受け取ってもいいのでしょうか。

4 月 11

引用メモ3など

生命とは何か。情報とは何か。自己複製系とは何か。自己とは何か。宇宙に生命が誕生する確率はどれくらいか。地球の外に生命は存在するのか。物質は進化するのか。言葉とは何か。何か。何か。何か。何?

問いが壮大すぎて眠れなくなる。それでも、「いま、ここ(here and now)」の感覚はたしかにある。

死は觀念である、と私は書いた。これに對して生は何であるか。生とは想像である、と私はいはうと思ふ。いかに生の現實性を主張する者も、飜つてこれを死と比較するとき、生がいかに想像的なものであるかを理解するであらう。想像的なものは非現實的であるのでなく、却つて現實的なものは想像的なものであるのである。現實は私のいふ構想力(想像力)の論理に從つてゐる。人生は夢であるといふことを誰が感じなかつたであらうか。それは單なる比喩ではない、それは實感である。この實感の根據が明かにされねばならぬ、言ひ換へると、夢或ひは空想的なものの現實性が示されなければならない。その證明を與へるものは構想力の形成作用である。生が想像的なものであるといふ意味において幸福も想像的なものであるといふことができる。(「人生論ノート」から)

参照元:青空文庫・三木清

3 月 29

喉まででかかる

顔は知っているはずなのに、その人の名前が思い出せないことを一度は経験したことがあるかもしれない。

心理学の世界では、このような現象を”Tip-of-the-Tongue Phenomena”とよんでいるらしい。舌の先という意味。略してTOTs(なんか顔文字みたいだ)。日本語では、「喉まででかかっているのに思い出せない」という表現になる。私たちの記憶というのはある意味正確無比だけれど、言葉で表現しようとすると、突如としてうまくいかないことがある。言葉を使うということは、きっと相当な労力を要するのだろう。

TOTs

Wikipediaの“Tip of the tongue”の項目にリンクされていたcartoon。アメリカの漫画には、一コマだけですべてを語る的なものがある。画力は別として、すごく知的だし、詩的で面白いと思う。