暑さが最高潮に達していて、なんともうだつが上がらない(?)日々を送っています。
本を読もうと思っても、息を潜めてページをめくる作業をしていると、とたんに冷たいものが飲みたくなったり、頭がボーっとしてきたり、平静を保つのが難しい毎日です。読みたいものは次々出てくるのですが。
最近、特に僕が注目しているのは、海外の短編小説です。それも、南米のものとか、ロシアのもの。南米では、ボルヘスやガルシア=マルケスなど、すぐれた短編を多数残した作家がいます。ロシアでは、チェーホフ。人づてにチェーホフの良さをききました。暑いときこそ、短時間でさらっと読める、読後感もすっきりとした、短編小説がいいのではないでしょうか。
あいさつはさておき、今回の投稿のタイトルの「わたしとあなたをめぐって」。こんなタイトルを思いついて、ここに書き散らそうと思ったのは、『現代思想(青土社)』の特集、<ニューロエシックス>を目にしたからです。神経倫理=ニューロエシックスについては、ガザニガの「脳のなかの倫理―脳倫理学序説」や脳を活かす研究会をとおして、2年前くらいから耳にしていたのですが、脳神経科学がマスコミやゲーム業界から注目されるようになって、いよいよおもしろいことになってきそうな雰囲気を見せています。
「生命の設計図」であるDNAを解読することによって、生命そのものを制御できるのではないかと、一部の人間が想像したのは、いまから10年くらい前のことだったと記憶しています。生命倫理=Bioethicsいう分野が出現しました。現在議論されている神経倫理=Neuroethicsでは、「思考を読む機械」である脳波計やfMRIやNIRSをつかうことで、人間の思考・行動が支配できるのではないか、という想像が根源にあります。ここ何年かの間で急速に進歩しているのが、BMI(Brain Machine Interface)やBCI(Brain Computer Interface)とよばれる技術です。人や動物の神経系から発せられる電気信号をコンピュータに取り込んで、ロボットを動かしたり、いわば考えるだけで、マウスのカーソルを移動させたり、クリックしたりすることが可能になりました。工学と医学の融合領域で、まさにSF並の、さまざまな実験・応用が試みられようとしています。
『現代思想』の特集では、脳神経科学が行き着く先は、フーコーが説いた「生政治=Biopolitics」(政府が全国民の生を管理する)につながるのではないか、という考えをもった人がけっこういて、僕もかなり近い考えをもっています。どこに出てきたかは覚えていないのですが、Noopolitics(精神あるいは魂の政治)という妙な言葉を持ち出している人もいたりして、ふーんと思いました。
『現代思想』の記事で、ほかの執筆者とは明らかに異質な記事を投稿していたのが、Production I.G.で「攻殻機動隊S.A.C.」などの脚本を書いている、櫻井圭記さんの「複合する私たち 四人称の未来へ」です。きっとこうなんじゃないか、という櫻井さんの直観が、散りばめられている文章ですが、僕は理論武装100%の文章よりも、こういう文章のほうが100倍面白いと感じました。冒頭で櫻井さんの生い立ちが語られ、ロンドンで体験した英語の人称変化の不思議や、ブーバーの「我と汝」、アイヌ語に四人称があること、などなどが述べられています。文体がとても滑らかで読みやすいです。櫻井圭記さんは、以前僕が所属していた立花隆ゼミの、2006年の五月祭企画「INNOCENCEに見る近未来科学」で作家の瀬名秀明さんとの対談があり(オリジナルとコピーのはざまで─ゴーストが宿る場所─)、僕はそれを聞きに行きました。
さて、こうして長々と人称代名詞にまつわる思い出バナシをしているのには理由がある。脳神経科学の領域で昨今話題になっているBMI技術が近い将来にもたらすかもしれない「脳‐ネットワーク社会」においては、僕たちの意識の有り様は変容し、「四人称」とでも称すべき新たな感覚が生じるのではないか、と個人的に妄想するからである。(「複合する私たち」、櫻井圭記、『現代思想』)
「四人称」という、新たな人称が出現するというのは、一見タダの夢想にしかみえません。しかしながら、日々インターネットに接していて、毎日欠かさず書き込みをして、「痕跡」を残している人間にとっては、実は感覚としてもう「当たり前」のことなのかもしれません。現実世界とは違う、仮想世界での「つながっている」感覚は、インターネットが出現した10年前くらい、というかむしろ、ドコモのi-modeが普及したあたりから日常的なものになっていた気がします。twitterなんかを熱心にやっていると、すごくよくわかると思います。
ところで、櫻井さんは、脚本を担当した『攻殻機動隊S.A.C. TRILOGY-BOX (Blu-ray) (初回限定生産)』のタイトルのネーミングについて、こんな風に書いています。
個にして全、全にして個、という関係がどこまでも階層化されたホロニックなネットワーク構造の中で、新たに現れてきている主体(らしきもの)に、僕たちは何とかして新しい名前をつけたがっているのである。ネットから切り離され、個体として自立する「スタンド・アローン」な各人の形成する複合体「コンプレックス」とは、まさしく、一人称でありながら、同時に三人称でもありうる、四人称的な世界観のことに他ならない。
(同上)
四人称というのはつまり、グノーシス主義の言い換えなのでしょう。僕も一時期、この考えにけっこう関心があったことがありました。要するに、「あなたはわたし。わたしはあなた。全ては今ここに存在し、全てはわたしのなかにある。」ということ。自己と他者の境界がなくなることは、自己が崩壊するリスクがかなり高いわけです。
いま、ほぼ同時に読んでいるのが、橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」。いま私たちが考えるべきことは、じつは私たち自身のことだ、というのがこの本の主題なのですが、冒頭の「はじめに」で興味深いことが述べられいます。
自分の外にはすごく大きな「人の集団」があって、そこでは、「私たち」という一体感のある言葉が、あたりまえに使われています。
(中略)
何かは共有出来ているし、時々は深い意見の一致もあるけれど、「一人称複数の一体感」はあまりない―かえって逆に、その一体感をわたしは避けようとしています。それは、「一人称複数の一体感」がない方が、個人的で自由にしていられるような気がするからです。
(中略)
私一人と外側との関係は、「全体vs.個」で「全体vs.孤」ですが、たまさかに「ボクたち」だったり「オレたち」だったりする友人たちと、その外側との関係もまた、「全体vs.個=孤」です。
(「いま私たちが考えるべきこと」、橋本治)
非常に接点がある、クロスリンクしたこの二つ文章を読んで、ああ、僕の考えていたようなことはこんなことだったのかな、と思いました。たまたま図書館で借りた橋本治さんの本に、こんなことが書いてあるとは思いもよりませんでした。トピックは「私」と「私たち」から、「私」と「私たち」と「社会」に移ります。
「私」は「私たち」の一員ではあるけれど、しかし、その「私」の所属する「私たち」は、実のところ、一体感の持てない「彼ら」でしかない―こういう断絶があって、それが何度も繰り返されるのです。
「私」は「社会」の一員だが、しかし、その「私」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
「私たち」は「社会」の一員だが、しかし、その「私たち」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
(同上)
人間は社会性のある生物だと言われます。つまり、動物行動学的にみて、「群れをなす」動物だということができます。僕たちは日常的に、群れる=仲間と一緒にいることは自覚的にできます。いつも一緒にいる仲間というのは、たぶん、自分とどこか似ているところがあったり、気があったりして、共に行動することで気分が落ち着きます。でも、どこからどこまでが仲間なのか、ということを考え出すと、僕たちが所属している社会とはなんなのか、ということに考えが至ります。社会には、「僕」が知らない「仲間」がいるかもしれないし、これまでいたのだし、絶対いるはずです。それと同時に、「僕」とは相いれない「敵」や不和をもたらす人間がいることも間違いないわけです。つまり、社会というのは、潜在的な「仲間」が適度に配合された七味唐辛子が入った容器のようなもので、僕たちは、そのスパイスの粒を見分けて、どれが自分との相性がいいかを判断するのだと思います。
ポストモダンな現代思想の世界ではよく、「哲学の社会学化」が言われています。結局、哲学者=自分たちのように「哲学」をやる人が世の中にそんなにいないのではないか、という<不安>が、周りの人は何を考えているんだろう、という<疑問>に代わって、社会学っぽくなるんじゃないかと僕は思ったりしています。
そういうわけで、収拾がつかなくなってきたのでこの辺で筆を置くことにしますが、複数の人間から形成される、人間を超えた何かに思いを巡らすことは、すごく面白いですね!!それこそが「歴史」なのかもしれません。
「太陽ニュートリノに質量がある」という、ノーベル賞級の発見をした、素粒子物理学者の戸塚洋二氏が、昨日亡くなりました。享年66歳。死因はがんによる多臓器不全。戸塚氏は静岡県富士市出身です。同じ県出身の僕は、高校2年の春、つまり2003年3月15日、高校の同窓会の企画した講演会で、戸塚氏の講演を聴きました。日時を正確に記銘しているのは、講演終了後、戸塚氏に色紙にサインをもらいに行って、日時も記入してもらっていたから。そして、それを上京するときに持ってきていたから。いわゆる願掛けというものです。講演では、電子ニュートリノやμニュートリノやτニュートリノなど、科学雑誌”Newton”で読んだことはあっても、得体のしれない、聴きなれない用語がたくさん登場して、中学生のころから自称・科学マニアだった僕は、たいへん感激したことを覚えています。その前年の2002年は、戸塚氏の研究プロジェクトのボスだった、小柴昌俊氏がノーベル物理学賞を受賞しています。戸塚氏や小柴氏がニュートリノ研究を行っていた、岐阜県にある、神岡鉱山地下の「スーパーカミオカンデ(KAMIOKANDEとは、Kamioka+NDEの意)」から、ノーベル賞が再び出るとすれば、間違いなく戸塚氏に贈られるであろうということは、関係者ならずとも周知の事実でした。実際、ノーベル賞受賞者が予測される場では、戸塚氏の名前が頻繁に出てきました。
戸塚氏が現場を意外なほどに早く退き、東大からも職を離れたのは、病気の療養のためだったと思われます。貴重な素粒子物理学のパイオニアを66歳という年齢で失うことは、日本のアカデミアにとっては、大きすぎる痛手です。もっとはやく、戸塚氏にノーベル賞を受賞してもらいたかったと、正直に思います。
ご冥福をお祈りします。
4月15日付の日本経済新聞朝刊で、津島佑子さんによる追悼文を目にしたのですが、作家の小川国夫さんが亡くなったそうです。享年80歳。小川国夫さんは、僕と出身地が同じ、静岡県藤枝市の生まれの小説家です。東大文学部仏文科に入学してから、ヨーロッパ各地を旅行し、その放浪体験をつづった「アポロンの島」で1957年にデビュー。僕は、小川さんの小説をとおして読んだことはないのですが(今度読みます)、たしか『新潮』で連載していた小説に、静岡県中部の聞きなれた地名がたくさんでてきて、とても親近感を覚えたことがあります。
昨年、小川国夫さんをはじめ、藤枝にゆかりのある作家を記念した藤枝市文学館がオープンしています。小川さんがまだまだ健在だと思っていたのに、とても残念に思います。
ご冥福をお祈りします。
今週の火曜日に卒業式を終えて、内心ほっとしています。あまり実感は感じていませんが、”いままで”と”これから”は、明らかに違うんだと思います。自分は変わらないと考えてしまいがちなのですが、周囲の期待というか、要求というか、理想というか、そういうものが高まってくるのだと思います。自分は「こいつはこんな奴だ」と決め付けられるのがあまり好きではないのですが、良い意味で周囲の期待に沿う人物でありたいです。時には、周りを驚かせるようなこともしたいですが。
<自覚>と<責任>と<謙遜>。この三つを大事に生活していきたいと思います。
はじめまして。
上京してから5年目に入ろうとしているYo_wIです。
自分の考えたこと、思ったことを書き留めておきたくなったので、ブログを始めることにしました。昔から、事始めは春がいいといいますが、これから毎日ブログに投稿するのが習慣になったらいいです。
文章を書くことは嫌いではないのですが、自分はなにかと惰性で生きがちなので、少しずつ身近なことから書いていきたいな、と思います。






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