10 月 04

ブログを書くこと

二週間近く記事を書いていませんでした。ぼくが通っている大学では、9月の終わりから10月の初めにかけて、なだらかに前期から後期への移行が完了したところです。

いろんなことがありました。

情報爆発に関するシンポジウムに行ったり、
横浜トリエンナーレ2008を見に行ったり、
自然科学研究機構シンポジウムを聴きに行ったり、
未知検体実習で夜遅くまで腸管や心臓の収縮を見たり、
実験動物の慰霊祭で献花をしたり、
祖父の一周忌で実家に戻ったり、
ちょうど同じ日にもう片方の祖父が退院したり、
実家の側の草むらの草刈りをしたり、
母親にiPod nano(ひとつ前の世代)を選んで使い方を教えてあげたり、
実習のデータをまとめたり、パワーポイントファイルを作ったり、
レポート書いたり、薬理学勉強したり、
脂質とアミノ酸とプリン・ピリミジン代謝経路を学んだり、
なんというか、もういろいろありました。

たまには、きわめて個人的なことを書いてみたりします。

じつは、「今日何をした」というのは、ビジネス手帳に今年の初めから書いていて、なぜか今まで続いています。記憶の補充と出来事の整理。ひょんなところで誰にあった、とかいうのは思い返すと面白いものです。

ところで、日本で書かれているブログには、二つのタイプがあると言われます。ひとつは、ニュースサイトなどの引用記事。ネタがないものかとネットを巡回して見つけた記事にリンクしてコメントする形式です。もうひとつは、SNS的なプライベートな日記。自分と自分の周りの何人かで完結してしまう時空間での出来事。このブログ(=EXTRA PLANET BLOG)はどちらかというと前者。写真などがメインになっていることもありますが。一方で、欧米に多いのが、思想・政治信条について自らの意見を述べるタイプのブログだと言われます。欧米人らしく、ロジックで自分の言いたいことや考えていることを思いのままに表明するタイプ。日本でも、若い世代の哲学系の人たちや作家業を営んでいる人たちがこのタイプのブログを書いていますが、全体的にみて数は少ないと思います。

僕は、せっかくなので、多くの人に読んでもらえるような、共感してもらえるような文章を書きたくて、レンタルサーバでドメインもとって、Wordpressでブログ執筆をしているのですが、やはり内容が引用や雑感や日記になりがちで、歯痒い思いをしています。とは言うものの、引用は癖になります。どの本を見ても、冒頭から数ページ目には小さく、昔の人の偉大な言葉が書いてありますよね。

“Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.” - Oscar Wilde

正直に言って、自分で自分の考えを作り出すことは、本当に難しいことです。かの文豪ゲーテのように、珠玉の言葉の数々が湧き出てほしいと何度願ったことでしょう。しかし、ショウペンハウエルは以下のように書いています。

ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついたひとにとってのみ価値をもつ。ただ少数の思想のみが、読者の反響を通じて働き続ける力をもつ。言い換えれば、書きおろされた後にも読者の関心を奪う力をもつ。
(『読書について 他二篇』「思索」より)

何世紀も前から読み継がれてきた書物というのは、その著者自身がすごいというのもさることながら、幾多の文筆家・思想家が著した書物の中から、何世代もの読者の支持を得て、何度も印刷されて、何ヶ国語もの言語に翻訳されて、いわば選別の網を掻い潜ってきました。昔の人がとっくの昔に考えた思想に、自分で考えた挙句たどり着くことができれば、すこしはマシなほうだ、とショウペンハウエルは言っています。引用ばかりに頼っている僕としてはちょっとした救いです。

同じ文章の中で、この思想家はこんな素敵なことも書いています。

現実の国では、いかに美しい幸福、快適な生活に恵まれても我々は常に重力の影響下に動いているにすぎず、たえずこの影響にうちかたなければならない。だが思想の国では、我々は物体ならざる精神であり、重力という必然の重みから免れる。そのため地上のいかなる幸福も、美しい豊かな精神が時をえて自らのなかに見出す幸福には比すべくもない。

思想というものがもっている軽快さと浮遊感。僕が好きな言葉では、アンリ・ベルクソンが言う「生の飛躍=élan vital」。フリードリヒ・ニーチェだと「力への意志」。ヴァルター・ベンヤミンは文学的作品や芸術作品には「アウラ」が宿っているようなことを言っているし、見えなくて重さがないものへの畏敬はいたるところに見受けられる。世の中は、目には見えない形而上学的な物事で騒々しい。

とりとめなくなってきたので、この辺にしておきたいと思うけれど、ブログには、将来のこととか、これからやらなければならないこと・やりたいこと・やってみたいこととか、願いとか、こうなってほしいみたいなことを書いてもいいと思う。

2008年も秋に入り、世界を金融不安が駆け巡っていて、1929年の世界恐慌をある意味超えたらしいことをメディアは伝えているけれど、僕たちといえば、原油価格が下がってガソリン価格も下がるみたいだとか、日本の銀行がアメリカの証券会社を買収してすごいなとか、友達の友達が勤めている外資系証券会社の日本法人が破産申請で大変なことになってるとか、いろんなことを考えている。それを考えているときを除けば、いつもどおり何気なく過ごしている。気温が20℃を下回って寒くなってきたので衣替えをしなければならないし、携帯電話は充電しておかなければならないし、ごみは分別して出さなければならない。6000兆円を超える投機マネーはいったいどこに行ったんだろう??

現実感。自分が生きているという感覚を感じるのは、素晴らしいものに触れて感動したとき。あるミッション系の大学に行くようになって、いままでの自分にはなかった感受性の一部分が開けてきたように思える。できれば毎日感動したい。感動できるものを見つけて過ごしたい。感動したものを覚えていたい。人を感動させる方法を身につけたい。できることなら、一日一人くらいは、新しい人と親しくなりたいと思う。知人の新しい一面を知りたいと思う。自分の新しい部分を発見したいと思う。いま生きている人に残された時間は有限で、身体は一つしかない。「いま、ここ」にしか自分はいないし、「いま、ここ」を生きることしかできない。それでも、僕には僕の個人史がある。僕の家族にも家族の歴史があって、僕の先祖代々にも先祖代々の歴史がある(あ、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んでみるといいかもしれない)。それと一緒に、日本史と世界史には、アウストラロピテクスがいた太古から近現代に至るまでの脈々としたストーリーがある。生物の進化史はそれより長く、地球になるとおよそ46億年。(この)宇宙はおよそ137億年。いくらなんでも話がとびすぎではあるけれど、とんでいるのは思考だけで、僕の生物学的な体はどこにも移動していない(地球の自転・公転と宇宙の加速度的膨張を除いて)。「思考」がもっている特筆すべき性質は、さっきも言ったとおり、重さがないことと、飛躍できること。

こんなことを考えていた。

知恵は、これを捕える者には命の木である、
これをしっかり捕える人は幸いである。
主は知恵をもって地の基をすえ、
悟りをもって天を定められた。
その知識によって海はわきいで、
雲は露をそそぐ。
(『聖書』箴言 3.18-20より)

9 月 20

海外の短編小説

南米コロンビア出身の作家、ガルシア=マルケスの短編を読んでいます。『百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))』(1967)はベストセラーとなり、1982年にノーベル文学賞を受賞しています。1928年生まれ。

新潮社のガルシア=マルケス全小説へのリンク。

http://www.shinchosha.co.jp/topics/marquez/

マルガリート・ドゥアルテは小学校しか出ていなかったが、文学を天職と感じていたせいで、手の届くところにあった印刷物をすべて熱心に読破してきたため、ずっと広範な知識をもっていた。十八歳の時、村の書記になっていた彼は美しい少女と結婚したが、彼女は初めて女の赤ちゃんを出産した後に亡くなった。娘は母親よりもさらに美しかったが、誰もがかならずかかる熱病のせいで七歳にして死んだ。しかし、マルガリート・ドゥアルテの真の物語が始まったのは、彼がローマに来る六か月前のことだった。

(『十二の遍歴の物語』「聖女」、G・ガルシア=マルケス著、旦 敬介訳)

9 月 14

Live Like A Poet 5

今回は、室生犀星を取り上げてみます。いま僕が住んでいるところとかなり近い、田端に住んでいた詩人です。

雨の詩

雨は愛のやうなものだ
それがひもすがら降り注いでゐた
人はこの雨を悲しさうに
すこしばかりの青もの畑を
次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた
雨はいつもありのままの姿と
あれらの寂しい降りやうを
そのまま人の心にうつしてゐた
人人の優秀なたましひ等は
悲しさうに少しつかれて
いつまでも永い間うち沈んでゐた
永い間雨をしみじみと眺めてゐた

(『愛の詩集』、室生犀星)

「雨」という対象からは、「慈悲深さ」が連想されますが、
「雨」といっても、「豪雨」や「台風」や「ハリケーン」となると、話が違ってきます。

水はわたしたちが生きるのに欠かせませんが、
水が雨雲にのって、一挙にまとまって押し寄せてくると、
わたしたちはただただ無力で何もすることができません。

わたしたちはいまだに、この詩人が言うように、
「永い間雨をしみじみと眺めて」いることしかできないんですね。
気候変動=Climate Changeを体感している今日この頃です。

9 月 11

Live Like A Poet 4

今日は、プロレタリアート詩人の小熊秀雄。名前が気になっていたのだけれど、詩集を借りて写真を見たら、ウェーブがかかった長髪が似合うオシャレな感じの人だった。しかも、40歳になる前に死んでいる。

怖ろしい言葉を

頭を掻きむしって
詩を書く時代は去った
立派な発声法によって
生きた人間の呼吸を吐け
友よ、
労働者詩人よ
詩の古い形式を理解しろ
だが信ずるな
僕はあいつらの
貞操をコジあけて
砂をぶち込んでやった
真理でないものを
真理だと堅く守っていたものにとって
君達も僕のように
暴力者となったらいい
うんと怖ろしい言葉を吐くのだ
たえがたい悲しみを
痙攣的な憤怒を
立派に整理して
吐露することが
科学的な新しい詩人の役割だ
可愛い雀斑の娘が
私達の傍にやってくるだろう
魅力はもうあいつらにないから
あいつらのところには
もう美しいものが
集っていかないだろう
さあ、元気を出して
うたうのだ
呟いてはいけない
口の開けたてを正確にして
生活の歌をうたうのだ

(『拾遺詩篇』、小熊秀雄)

ザ・プロレタリアート。石川啄木の悲観とは違い、どこか暴力的で危険で、攻撃性が潜在している印象をもった。

しゃべり捲くれ

私はしゃべる、
若い詩人よ、君もしゃべり捲くれ、
我々は、だまっているものを
どんどん黙殺して行進していい、
気取った詩人よ、
また見当ちがいの批評家よ、
私がおしゃべりなら
君はなんだ――、
君は舌足らずではないか、
私は同じことを
二度繰り返すことを恐れる、
おしゃべりとは、それを二度三度
四度と繰り返すことを云うのだ、

9 月 09

Live Like A Poet 3

今日は、ウィリアム・ブレイク詩集より。有名な4行を引用。英語とか中国の詩は、規則がはっきりしていて面白い。

Auguries of Innocence

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the pain of your hand
And Eternity in an hour.

              William Blake

9 月 08

Live Like A Poet 2

今日も詩を引用します。中原中也詩集より。

僕が知る

僕には僕の狂気がある
僕の狂気は蒼ざめて硬くなる
かの馬の静脈などを想はせる

僕にも僕の狂気がある
それは張り子のやうに硬いがまだ
張り子のやうに破けはしない

それは不死身の弾力に充ち
それはひよつとしたなら乾鮑であるかも知れない
それを小刀で削つて薄つぺらにして
さて口に入れたつて唾液に反撥するかも知れない

唾液には混ざらぬものを
恰かも唾液に混るやうな恰好をして
ぐつと嚥み込まなければならないのかも知れない
ぐつと嚥み込んで、扨それがどんな不協和音を奏でるかは、僕が知る

(『未刊詩篇』、中原中也)

9 月 07

Live Like A Poet

少し手が空いたので、手元にあった詩集から詩を引用します。

その詩

その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩はただ奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は清算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構をもつ。
その詩は滃然(をうぜん)と空間を押し流れる。
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺(しせき)に生きる。
その詩は手厳しいが妙に親しい。
その詩は不思議に手に取れそうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしだたみ)にも書いてある。

(『猛獣篇』、高村光太郎)

8 月 01

Last Lecture

CMUのRandy Pauschの”The Last Lecture”を見た。

文句なしに良かった。

ただ頭がいいんではなくて、
人として、
教育者として、
ただならぬ才能をもった
無類の人。

生き方そのものが澄み渡っている。

“If you lead your life the right way,
the karma will take care of itself.
The dreams will come to you.”
Randy Pausch

Randy Pauschのように
ときとしてリーダーシップを
発揮できる人になりたいと思った。

僕たちが学ぶことの
知ることの楽しみが
こんなにもわかりやすかったなんて
思わなかった。

僕をこれまで育て上げてくれた
両親(ともに教員)と
お世話になったたくさんの先生に
感謝の気持ちでいっぱいになった。

Randy Pauschのことは、
この先ずっと憶えていよう。

7 月 24

わたしとあなたをめぐって

暑さが最高潮に達していて、なんともうだつが上がらない(?)日々を送っています。

本を読もうと思っても、息を潜めてページをめくる作業をしていると、とたんに冷たいものが飲みたくなったり、頭がボーっとしてきたり、平静を保つのが難しい毎日です。読みたいものは次々出てくるのですが。

最近、特に僕が注目しているのは、海外の短編小説です。それも、南米のものとか、ロシアのもの。南米では、ボルヘスやガルシア=マルケスなど、すぐれた短編を多数残した作家がいます。ロシアでは、チェーホフ。人づてにチェーホフの良さをききました。暑いときこそ、短時間でさらっと読める、読後感もすっきりとした、短編小説がいいのではないでしょうか。

あいさつはさておき、今回の投稿のタイトルの「わたしとあなたをめぐって」。こんなタイトルを思いついて、ここに書き散らそうと思ったのは、『現代思想(青土社)』の特集、<ニューロエシックス>を目にしたからです。神経倫理=ニューロエシックスについては、ガザニガの「脳のなかの倫理―脳倫理学序説」や脳を活かす研究会をとおして、2年前くらいから耳にしていたのですが、脳神経科学がマスコミやゲーム業界から注目されるようになって、いよいよおもしろいことになってきそうな雰囲気を見せています。

「生命の設計図」であるDNAを解読することによって、生命そのものを制御できるのではないかと、一部の人間が想像したのは、いまから10年くらい前のことだったと記憶しています。生命倫理=Bioethicsいう分野が出現しました。現在議論されている神経倫理=Neuroethicsでは、「思考を読む機械」である脳波計やfMRIやNIRSをつかうことで、人間の思考・行動が支配できるのではないか、という想像が根源にあります。ここ何年かの間で急速に進歩しているのが、BMI(Brain Machine Interface)やBCI(Brain Computer Interface)とよばれる技術です。人や動物の神経系から発せられる電気信号をコンピュータに取り込んで、ロボットを動かしたり、いわば考えるだけで、マウスのカーソルを移動させたり、クリックしたりすることが可能になりました。工学と医学の融合領域で、まさにSF並の、さまざまな実験・応用が試みられようとしています。

『現代思想』の特集では、脳神経科学が行き着く先は、フーコーが説いた「生政治=Biopolitics」(政府が全国民の生を管理する)につながるのではないか、という考えをもった人がけっこういて、僕もかなり近い考えをもっています。どこに出てきたかは覚えていないのですが、Noopolitics(精神あるいは魂の政治)という妙な言葉を持ち出している人もいたりして、ふーんと思いました。

『現代思想』の記事で、ほかの執筆者とは明らかに異質な記事を投稿していたのが、Production I.G.で「攻殻機動隊S.A.C.」などの脚本を書いている、櫻井圭記さんの「複合する私たち 四人称の未来へ」です。きっとこうなんじゃないか、という櫻井さんの直観が、散りばめられている文章ですが、僕は理論武装100%の文章よりも、こういう文章のほうが100倍面白いと感じました。冒頭で櫻井さんの生い立ちが語られ、ロンドンで体験した英語の人称変化の不思議や、ブーバーの「我と汝」、アイヌ語に四人称があること、などなどが述べられています。文体がとても滑らかで読みやすいです。櫻井圭記さんは、以前僕が所属していた立花隆ゼミの、2006年の五月祭企画「INNOCENCEに見る近未来科学」で作家の瀬名秀明さんとの対談があり(オリジナルとコピーのはざまで─ゴーストが宿る場所─)、僕はそれを聞きに行きました。

さて、こうして長々と人称代名詞にまつわる思い出バナシをしているのには理由がある。脳神経科学の領域で昨今話題になっているBMI技術が近い将来にもたらすかもしれない「脳‐ネットワーク社会」においては、僕たちの意識の有り様は変容し、「四人称」とでも称すべき新たな感覚が生じるのではないか、と個人的に妄想するからである。(「複合する私たち」、櫻井圭記、『現代思想』)

「四人称」という、新たな人称が出現するというのは、一見タダの夢想にしかみえません。しかしながら、日々インターネットに接していて、毎日欠かさず書き込みをして、「痕跡」を残している人間にとっては、実は感覚としてもう「当たり前」のことなのかもしれません。現実世界とは違う、仮想世界での「つながっている」感覚は、インターネットが出現した10年前くらい、というかむしろ、ドコモのi-modeが普及したあたりから日常的なものになっていた気がします。twitterなんかを熱心にやっていると、すごくよくわかると思います。

ところで、櫻井さんは、脚本を担当した『攻殻機動隊S.A.C. TRILOGY-BOX (Blu-ray) (初回限定生産)』のタイトルのネーミングについて、こんな風に書いています。

個にして全、全にして個、という関係がどこまでも階層化されたホロニックなネットワーク構造の中で、新たに現れてきている主体(らしきもの)に、僕たちは何とかして新しい名前をつけたがっているのである。ネットから切り離され、個体として自立する「スタンド・アローン」な各人の形成する複合体「コンプレックス」とは、まさしく、一人称でありながら、同時に三人称でもありうる、四人称的な世界観のことに他ならない。
(同上)

四人称というのはつまり、グノーシス主義の言い換えなのでしょう。僕も一時期、この考えにけっこう関心があったことがありました。要するに、「あなたはわたし。わたしはあなた。全ては今ここに存在し、全てはわたしのなかにある。」ということ。自己と他者の境界がなくなることは、自己が崩壊するリスクがかなり高いわけです。

いま、ほぼ同時に読んでいるのが、橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」。いま私たちが考えるべきことは、じつは私たち自身のことだ、というのがこの本の主題なのですが、冒頭の「はじめに」で興味深いことが述べられいます。

自分の外にはすごく大きな「人の集団」があって、そこでは、「私たち」という一体感のある言葉が、あたりまえに使われています。
(中略)
何かは共有出来ているし、時々は深い意見の一致もあるけれど、「一人称複数の一体感」はあまりない―かえって逆に、その一体感をわたしは避けようとしています。それは、「一人称複数の一体感」がない方が、個人的で自由にしていられるような気がするからです。
(中略)
私一人と外側との関係は、「全体vs.個」で「全体vs.孤」ですが、たまさかに「ボクたち」だったり「オレたち」だったりする友人たちと、その外側との関係もまた、「全体vs.個=孤」です。
(「いま私たちが考えるべきこと」、橋本治)

非常に接点がある、クロスリンクしたこの二つ文章を読んで、ああ、僕の考えていたようなことはこんなことだったのかな、と思いました。たまたま図書館で借りた橋本治さんの本に、こんなことが書いてあるとは思いもよりませんでした。トピックは「私」と「私たち」から、「私」と「私たち」と「社会」に移ります。

「私」は「私たち」の一員ではあるけれど、しかし、その「私」の所属する「私たち」は、実のところ、一体感の持てない「彼ら」でしかない―こういう断絶があって、それが何度も繰り返されるのです。
「私」は「社会」の一員だが、しかし、その「私」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
「私たち」は「社会」の一員だが、しかし、その「私たち」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
(同上)

人間は社会性のある生物だと言われます。つまり、動物行動学的にみて、「群れをなす」動物だということができます。僕たちは日常的に、群れる=仲間と一緒にいることは自覚的にできます。いつも一緒にいる仲間というのは、たぶん、自分とどこか似ているところがあったり、気があったりして、共に行動することで気分が落ち着きます。でも、どこからどこまでが仲間なのか、ということを考え出すと、僕たちが所属している社会とはなんなのか、ということに考えが至ります。社会には、「僕」が知らない「仲間」がいるかもしれないし、これまでいたのだし、絶対いるはずです。それと同時に、「僕」とは相いれない「敵」や不和をもたらす人間がいることも間違いないわけです。つまり、社会というのは、潜在的な「仲間」が適度に配合された七味唐辛子が入った容器のようなもので、僕たちは、そのスパイスの粒を見分けて、どれが自分との相性がいいかを判断するのだと思います。

ポストモダンな現代思想の世界ではよく、「哲学の社会学化」が言われています。結局、哲学者=自分たちのように「哲学」をやる人が世の中にそんなにいないのではないか、という<不安>が、周りの人は何を考えているんだろう、という<疑問>に代わって、社会学っぽくなるんじゃないかと僕は思ったりしています。

そういうわけで、収拾がつかなくなってきたのでこの辺で筆を置くことにしますが、複数の人間から形成される、人間を超えた何かに思いを巡らすことは、すごく面白いですね!!それこそが「歴史」なのかもしれません。

7 月 09

YOU REALLY GOT ME

最近読んでいる小説。前田司郎の『誰かが手を、握っているような気がしてならない

……
しかしわたしは神だ、神は死なない。結局どっちだ?うーん、しかしあれだ、なんだ、死があって初めて生きているよね、やっぱり。死がないんじゃ生の意味が変わってくるよね。人とかは、生といってもそれは死に続けることと同義であるから、生というのはそのまんま死であるといえるわけだけど、もし私が不死者であるなら、わたしにとっての生は、人の生とは全然違ってくる。純粋な生を生きているわけか私は。人の生は死でつくられたまがい物で、わたしの生は純粋な生。だけど、私も死ねるのだったら、結局、生というものは、死でできているのかなあ。
(中略)
わたしは全能であっても、言葉はそうではないのだ。あれ?ごめん、つまんなかった?
(『誰かが手を、握っているような気がしてならない』前田司郎)

いやー、面白い文体だなー。川上未映子に近いと思う。

The Kinks - You Really Got Me


Kinks Lyrics
You Really Got Me Lyrics