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これからの働きかた
Posted on 7月 22nd, 2009 No comments東京は雨です。
今日は日本で日食が見られることになってます。
日食ガイドに太陽を直接見ないように書いてありますが、
これじゃ日食そのものが見えないのではないか。
見えることを期待したいです。数日前、『働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)
』
を読みました。著者は、病児保育・病後児保育を事業としているNPO法人フローレンス代表の
駒崎弘樹氏。『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』
という本も書いている。この本は、元ITベンチャー起業家であり、今は社会起業家の立場にある駒崎さんが、
自ら率先して『働き方革命』を起こしていった「記録」である。読んでみてまず驚くのが、その文体。例えばこんな感じ。
自分はこれまで「やれるところまでやる」という仕事の仕方だった。これは部活でたとえて言うと、「もう走れなくなるまで、走る」オラオラ体育会的練習の仕方である。しかし、今日やったのは「必要な練習メニューを書いて、それに則ってやる」というやり方であった。必要なことはできている。何の問題もない。しかしこれまで「うわー疲れた。死にそう」という感覚が、すなわちゴールだったので、ゴールについていないような気がしてくるのだ。
(『働き方革命』、駒崎弘樹)「これが、新書なのか?」というくらいの軽さ。
言い止めも多く、ほぼ解体した文体。
一定の世代以上になれば、手に取っただけで受け付けないかもしれない。でも思った。
これは、感情を一切排除して、思考プロセスのみを記した論文ではなくて、
『働き方革命』という答えにいたるまでの苦悩や躊躇いを全部ひっくるめて
書いた「思い」の書なのだと。
一人称ノンフィクション小説のサクセスストーリーでなければならない理由がある。ああ、これは『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)
』
に対する、”若者世代”からの一つの返答にちがいない。
駒崎さんは1979年生まれ、いわゆる失われた世代(ロスジェネ)だ。文体をこのようにせざるを得なかったのも、学者や専門家が論じるような
「一歩引いた姿勢」では事態を伝えにくかったからなのだろう。
このような、いっけん非合理的なメッセージが感染的模倣(ミメーシス)を
起こしていくのだろう(という意見自体ちょっと冷淡な気がする)。どうして、『働き方革命』をしなければならないか。
それは、会社での長時間労働が、さまざまな形で家庭生活を
成り立たせなくしているからだ、と駒崎さんは説明する。
じっさい、いくら長時間労働したところで、知的生産率は向上しない。「家事は夫婦で共同してやればいいでしょ」といっても、
夫が帰ってくるのが夜11時ではそんなわけにはいかない。では、どうすればいいか。
夕方6時に帰宅するように、仕事を終わらせるのである。
ここはやや表現が難しいのだけれど、仕事を途中で終わらせて
「あとは任せる」のではなくて、やる仕事を決めておいて、
それが全部終わったら、帰るのである。とりあえず「早く帰る」ことからはじめて、「働き方を変える」。
これが、カエル!ジャパンプロジェクトなのである。
そんなプロジェクトがあるなんて知らなかった。政府と民間主導で「ワークライフバランス」を広報・支援していることは
僕は少し知っていた。
でも、「ワークライフバランス」という言葉だけだと、どうしても
「なんとなくユルそう」とか「なんかゆとりっぽい」とかいうイメージがあった。
でもそれは「仕事」や「働くということ」に対して「大変できつい」
という先入観を少なからずもっているからなのだと感じた。駒崎さんは、「早く帰る」ことでもたらされる時間の遣い方についても
紹介されていて、家族・地域社会とのつながりを大事にすることと、
自分のために投資すること(本を読む・ジムに通う)に取り組むべきだという。
僕はいま学生で、「自分のために投資すること」に多くの時間を
費やすことができるけれど、やっぱり働くようになってからも
その時間は絶対持ちたいと思っている。相互の助け合いが失われた地域では、個人と社会との紐帯がとても弱い。
それが、いわゆる孤独死の原因にもなっているらしいけれど、
「つながり」を自分から作っていくことで社会に働きかけることができる。
幸い、電子媒体など、「つながり」を作るための手段は充実してきた。「働き方革命」のコンセプト(抜粋)
・「仕事とプライベートを完全分離し、生活のために稼ぐことを『働く』と定義すること」から「プライベートを含めて、他者に価値を与える(傍を楽にする)こと全てを『働く』と定義すること」へ
・「目指せ年収1000万」ではなく「目指せありたい自分」
・「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」ではなく「ブースト・ジェネレーション(改革を加速する世代)」
・「終わりなき日常」ではなく「ビジョン実現に至る、日常という冒険の旅」
・「課題先進国 日本」ではなく「課題解決手法の輸出国 日本」
(『働き方革命』、駒崎弘樹)上の引用部分で『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
』
がでてきて、やっぱりこの人賢いなあと思う。たしかに、本当にスゴイ人間は「利他的」なんだと思う。
何事も、おカネじゃないよね。 -
日本の難点❸
Posted on 7月 20th, 2009 No comments大雪山系の遭難事故怖いですね。
山登りは夏といえども油断大敵です。最近の練習記録です。
水曜日 筋トレ。
木曜日 プール(1700m)。
金曜日 やすみ。
土曜日 筋トレ。
日曜日 やすみ。ここからつづき。
第二章の「早期教育は本当に有効か」から「「真の早期教育」とは」まで。
最近の親たちには、早期教育に懐疑的である人が増えているとしたあとで、
以下のように述べている。でも僕の場合、「圧縮された町」京都に育ったお蔭で、役立たなかった早期教育の機会費用はさほど高くなかったか、十分に補われました。後から述べるように、社宅住まいの新住民とは別に農家や商店やヤクザなど旧住民の子たちの輪のなかで育ったからです。だからいじめられもしたわけですが。
(『日本の難点』、宮台真司)均質化したコミュニティではなく、多様で雑駁な住民のあいだで
生活することで、知ることやわかってくることがある。
それは、社会の階層構造とか強弱関係とか敵対依存関係であって、
生きていく上で有用なもの。
「地アタマ」的な賢さということができる。
そういうものに子供のときに触れてきたか、触れてこなかったかで
ものの考え方が大きく変わってくる。
僕自身、こどものころは工業と農業が半々くらいのところに住んでいて、
いろんな家(歯科医師、会社員、地主、兼業農家、工場勤務などなど)
のこどもと遊んだものだったので、言っていることがだいたいわかる。教育に関して、シュタイナー教育が挙げられているのが興味深い。
ルドルフ・シュタイナーといえば人智学で、僕も数年前に興味をもった。
宮台氏は、密教的神秘主義的なものは危険であると言っている
(オウム真理教の本書いたくらいだし)。第四章「選挙で代表は選べるのか 多数決は正しいのか」は、
ちょうど想田和弘監督の『選挙 [DVD]』を観たあとだったので、
後援組織に依存しきった日本の選挙活動やプロモーションにかなり疑問を
持ちつつ読んでいった。
神話や伝説に描かれる物語には、創世譚(神が<世界>を創った)と
英雄譚(英雄が<社会>を創った)があるとし、以下のように述べている。<世界>を創る存在が<世界>の外側にいる存在で、<社会>を創る存在が<社会>の外側にいる(いた)存在なのは、なぜでしょう。簡単です。人は、人間が創った<世界>や、仲間が創った<社会>を、受け入れられないのです。
(『日本の難点』、宮台真司)なぜ受け入れられないのかという疑問に対して、①既得権益と
②恣意性の帰属可能性を挙げている。
②はどういうことかというと、「本当はどうとでもあり得る<世界>や
<社会>の恣意性が、自分の横にいてもかまわないような
―数多の成因と等価な―存在に帰属するということ。
だからこそ、「奪人称化」によって、①と②を考えずに済む
多数決による決定のメカニズムが合理的である。
「権威」や「カリスマ」は歴史上たびたび現れるけれど、
それは「一回性」をともなう現象であって、
人々がどんな人を「スゴイ奴」と見做すかは予期しがたい。このように表現されると、とてもよくわかりますね。
「選挙」に対する考え方がかわってきます。その他には、オバマ大統領が誕生した背景には、アメリカの立国以来、
稀にみる悪政を行ったブッシュ大統領がいたからだという皮肉があったり。
安全保障は、軍事ばかり目が行きがちだけれども、軍事以外にも
資源、食糧、技術、文化の安全保障があって、どれも重要であると言っていたり。
アメリカに対しては、「軽武装×対米依存」から「重武装×対米中立」の姿勢を
日本がもつべきだと書いてあったり。アキハバラ事件は「格差問題」が問題なんじゃないよ!
ロスジェネ論壇はもっと勉強してから論じなよ!
「環境問題のウソ」は今ごろ騒いでも遅いよ!
優秀なエリートは「みんな」への「価値コミットメント」しようよ!
というような四方八方への言いっぱなし。
でも沈着冷静な大人な意見なのは事実。あとがきにもあるように、すごく噛み砕かれて読みやすくつくられた本では
あるけれど、通読した後の眩暈は何ともしがたいものであって、
そしてその正体は、<社会>の複雑さによる眩暈なのだと。
宮台氏の社会システム論の応用力というか柔軟性というか、
システムの解釈の巧みさに圧倒された。miyadai.comに書評などがまとめられています。
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日本の難点❷
Posted on 7月 15th, 2009 No comments関東甲信地方は、昨日梅雨明けが発表されましたね。
僕は割と気分が天候に左右されやすい質なので
(ベースは安定していると思いますが)、うれしいです。だれでも、少なからず「気分」というのは、
季節の移り変わりとか天候とか土地柄とかに
影響を受けるのではないでしょうか。なんといっても、地上のエネルギーの根源は、ほとんどが
常なる太陽の爆発によってもたらされているわけですからね。太陽といえば、7月22日午前の皆既日食たのしみですね!
どこで見ようかなー。
日本で見られる次の日食は2035年ですって!というわけで。昨日の続き。
第三章の「自殺率は下げられないのか」。
公衆衛生や高校の公民的な知識には、日本人の自殺要因として、
経済問題と、鬱を含めた健康問題を教えているけれど、
それは全くの短絡的思考である、と。従来は、「鬱に陥ったから経済的な要因程度で自殺の引き金が引かれてしまうのだ」
「そもそも経済的な要因が鬱に陥るきっかけを与えてしまったのだ」というくらいの
解釈だったのに対し、NPO法人のライフリンク
(僕は姜尚中氏を通じて知った)のまとめた『自殺実態白書』によると
自殺の要因は複合的で、孤独死の背景とよく似ていることがわかったそうです。僕自身、政府・行政機関が本気になって自殺を予防したいと思ったら、
単にメンタルヘルス対策をとるだけでは足りないだろうと考えています。
それだけで減るわけないです。どれだけ精神科医がいたとしても、一度心身に問題を抱えてしまったら
既成事実が出来上がってしまって、「もう駄目だな」とか「終わったな」とか、
周囲が当事者から離れてしまっていく。
当事者は、自分がなりたくてなったわけではないのに、
メランコリー親和性(まじめで几帳面)とか、そういう型に
押しつけられてしまって、身動きできなくなる
(最近の若い人には、社会適応できない→鬱っぽくなるという説明もされます)。
そして、自殺が一つの選択肢のようなものに思えてくる。宮台氏は「社会的包摂性」のなさこそが問題であるという
問題意識を示していますが、どれだけの人ができているでしょうか。
そして、どのようにすれば社会的包摂が強化されるでしょうか。自分のことばかり気にしている大人にはなりたくないです。
つづく。
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日本の難点❶
Posted on 7月 14th, 2009 No commentsいまさらですが、ヱヴァンゲリヲン破は良かったです。
実は公開初日に見に行って、感想はネタばれになると
思って書くのを控えていたわけです。すでにさまざまなブログで詳細な分析などがされていて、
読んでみてなるほどなあと思いました。
評論家の東浩紀さんは、新キャラのマリ(名前はちょっと古風)をゼロ年代的
西尾維新的と評価していますが、たしかにそうだったと思います。表現しにくいですが、効果音でいうとこれまでのキャラの
「ウワアアアアアアァァァ!!!」よりは「ウオオォゥゥウオオォゥゥ!!!」とか
「アハァ?」なのかなーという印象を持ちました。ちょっとわかりにくいですね。
ショックとか衝撃を「真に受ける」というよりは、
「真に受ける」とまずいことを知っていて、あえて楽しむというような。役割的にもメタっぽい立場にいるようです。
シンジ・レイ・アスカのような危なっかしさというか
1990年代的世紀末的な感じとは好対照でした。先日、宮台真司さんの「日本の難点 (幻冬舎新書)
」を読みました。
大学受験の小論文対策とかにつかう「日本の論点 (2009) (文春ムック)
」
とかいうものがありますが、それを一人で書きましたというものです。現代社会学者としての日本における立場を揺るがないものとしてしまった
宮台氏がそれをやろうというのだから、面白くないはずはない。
しかも幻冬舎新書。僕は一度、初台のICCで宮台真司さんたち論者が
討論するイベントに参加したことがあって、
そこで宮台さんをみたのだけれど、
ものすごく早口で饒舌な方だったのを覚えています。この本は、コミュニケーション論・メディア論・若者論・教育論・
幸福論・米国論・日本論という順に章が建てられていて、
わりとオーソドックスな話と、○○論といったらこの人
というような教養的な内容が一部あり、
残りの部分を宮台氏個人の傾倒というか好みによって構成されています。社会を論じるにとどまらず、どのように社会を変えるかという
「社会設計=ソーシャルデザイン」についても考えている
(それ自体社会を論じることに含めることもできるが)のが
本書の特徴だと思います。オバマ大統領やチェ・ゲバラを例に挙げ、本当に「スゴイ奴」は
理屈とかではなくて、「感染的模倣=ミメーシス」によって
世の中を変えてしまうという話が一番のハイライトです。ミメーシスはギリシャ語で、この言葉をきくと僕は
松岡正剛氏のミメーシス+アナロギア=ミメロギアを思い出します。
古代ギリシャ的知性がいま求められているのかもしれません。たしかに、以前僕が東○生をしていたとき、「スゴイ奴」のもとに
「スゴイ奴」やまあまあ「スゴイ奴」が集う傾向があったような気がします。
そのような雰囲気、受け皿のようなしくみがありました。
たとえば、SCIや東大ドリームネットの知の創造的摩擦プロジェクト。
あの「自分たちにはなんでもできそうな感じ」の共有は
どうやったらできるんでしょう。いまは、ポストモダンでそれは人文科学的学問の世界に
限ったことではなくて、近代は終わりに入っているのであって、
それは新しいことなのかもしれないが、よくわかりません。コンビニ化ファストフード化が国土を覆って、
いたるところ郊外化してしまったので、
みんなが強大なシステムに気が付いてしまった。この「気付き」があるかないかが近代と後期近代の違いなのだということです。
つづく。
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リアリズム2
Posted on 4月 24th, 2009 No comments足の中指に腫れ物ができていた―窮屈な靴をはくのはやめなければならない。習慣になっているかのような慣れた手つきで、ポケットからねじ回しを取り出し、彼は腫れ物の芯を取り除いた。そしてそれを慎重に青い色の―夢にも色があるのだろうか?―箱に収めた。傷口から油のついた黄色い紐の端がのぞいていた。そこに紐が出てくることをあらかじめ知っていたかのように少しも驚いたふうを見せずに、彼はゆっくりと慎重に紐を引き出していった。それは非常に長い紐だったが、なんの痛みも不快感も伴わずにするすると出てきた。
(『死の向こう側』、ガルシア=マルケス著)前回のつづきです。魔術的リアリズムの旗手ボルヘスとともに有名な南米出身のガルシア=マルケスの短編を読んでいます。
つい先日中編の『予告された殺人の記録』を読み終えて、「サンティアゴ・ナサールの殺人」をめぐる時間の順序の入れ替えの巧妙さに唸りました。通常のミステリとは違った緊迫感を味わうことができました。一番「うまい」と思ったのは、語り手である「私」の位置。被害者の友人であり、殺人犯(双子)のいとこでもあるという設定なんです!小説家ってホントによーく考えて文章作ってるんだなと思いました。
そして、冒頭の『死の向こう側』について。こちらは初期の作品ということですが、物語のもつ雰囲気に瞬時に引き込まれていきます。ページ数にして10という、つかの間の読書体験のなかで味わうスリル。そのハイライト(と感じたところ)が引用部分の夢のなかのイメージです。腫れ物の芯をとると出てくる「黄色い紐」。ガルシア=マルケスの作品は「腫瘍」「心臓の鼓動」「神経の緊張」「身体の組織」など、解剖学的用語や生理学的用語が多く使われています(本篇の最後には「アルブミン」という言葉が出てくるほど)。
わたしたち各人にとってもっとも身近でかつ信用できる身体からでてくる不自然で異様なもの。しかしそれはたしかに紐で、紐それ自体に関しては、とかく有害ではない。異様なのは、紐が≪自分の体のなかから≫出てくること。絶対信頼できるはずの自分の体に誹られる感覚。これほど奇妙なものはないでしょう。そしてそれは、暗に無制限に増殖する癌細胞の喩えになっています。この事実にハッとさせられました。
カフカの短編『田舎医者』では、主人公の医師が往診に行った家の男の子のお腹に「花(バラだったような?)」が咲いているのを見つけます。体から出てくる「身近だけれどそこにはありえないもの」という表現手法は意外とたくさんの作家が使用しているものです。舞城王太郎の『ドリルホール・イン・マイブレイン』でも、主人公の陰部に白い花が咲きます。
幻想文学の表現を学ぼうと思いました。
