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高速バス、叡山電車、ATR
Posted on 8月 5th, 2008 No commentsおとといの朝から、きのうの夜まで、大阪‐京都‐奈良にいました。
東京駅八重洲口から高速バスに乗り、バスで一泊して、大阪駅桜橋口に朝8時過ぎに到着。それから、大阪環状線で天王寺に行き、地下鉄御堂筋線でなんばへ行き、御堂筋を歩いて、道頓堀と心斎橋と淀屋橋を歩き、大阪駅に戻って、JRで京都駅に行き、バスで出町柳に行き、叡山電車に乗って鞍馬に行き、鞍馬神社と貴船神社を見て、出町柳に戻って、百万遍から歩いて、京大院生の高校の同級生と会いました。それから、アパートに行き、また出かけて、下賀茂神社を見て、京都御所を歩いて、護王神社を見て、寺町という御土産街をみて、川床を見て、バスで高野に行って、ホテルの屋上のビアガーデンみたいなところで食事をして、けっこう飲んで、アパートに帰って泊めてもらいました。一日でかなりの距離を歩きました。写真もたくさん撮りました。
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そして、翌日は、同級生の家を出発して、京都駅に行き、立花ゼミの参加者と集合して、近鉄で新祝園に行って、そこからタクシーでATRという株式会社に行きました。ATRは、ロボットやメディア研究のレベルが非常に高い、全国でも有数の研究所ですが、場所がけいはんな学術研究都市という人里離れた場所だけに(関東では、つくば研究学園都市に相当)、あまり知られていません。それでも、京都からも大阪からも、一時間あれば電車でいける距離にあります。今回訪問したのは、ATRの中のCNSの組織の、脳科学とロボットをやっている研究者の先生たちで、fMRIやMEGを組み合わせることで、ヒトの脳の機能を観測したり、ヒトの脳を非侵襲的にロボットと「接続」したBMI技術を開発したり、というお話を聞いてきました。さいごに、CNS所長で、小脳の内部モデルの研究で有名な、計算論的神経科学のパイオニア、川人光男先生にインタビューさせてもらいました。どうして、脳の研究を始めたのか、ということから、BMI技術の社会的応用の話まで、広い範囲にわたって、お話を聞くことができて、とてもよかったです。それにしても、クールでスマートで、それでいて、パッションがあって、しかもオシャレという一流研究者が、世の中にはいるものだなーと思いました。
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わたしとあなたをめぐって
Posted on 7月 24th, 2008 No comments暑さが最高潮に達していて、なんともうだつが上がらない(?)日々を送っています。
本を読もうと思っても、息を潜めてページをめくる作業をしていると、とたんに冷たいものが飲みたくなったり、頭がボーっとしてきたり、平静を保つのが難しい毎日です。読みたいものは次々出てくるのですが。
最近、特に僕が注目しているのは、海外の短編小説です。それも、南米のものとか、ロシアのもの。南米では、ボルヘスやガルシア=マルケスなど、すぐれた短編を多数残した作家がいます。ロシアでは、チェーホフ。人づてにチェーホフの良さをききました。暑いときこそ、短時間でさらっと読める、読後感もすっきりとした、短編小説がいいのではないでしょうか。
あいさつはさておき、今回の投稿のタイトルの「わたしとあなたをめぐって」。こんなタイトルを思いついて、ここに書き散らそうと思ったのは、『現代思想(青土社)』の特集、<ニューロエシックス>を目にしたからです。神経倫理=ニューロエシックスについては、ガザニガの「脳のなかの倫理―脳倫理学序説
」や脳を活かす研究会をとおして、2年前くらいから耳にしていたのですが、脳神経科学がマスコミやゲーム業界から注目されるようになって、いよいよおもしろいことになってきそうな雰囲気を見せています。
「生命の設計図」であるDNAを解読することによって、生命そのものを制御できるのではないかと、一部の人間が想像したのは、いまから10年くらい前のことだったと記憶しています。生命倫理=Bioethicsいう分野が出現しました。現在議論されている神経倫理=Neuroethicsでは、「思考を読む機械」である脳波計やfMRIやNIRSをつかうことで、人間の思考・行動が支配できるのではないか、という想像が根源にあります。ここ何年かの間で急速に進歩しているのが、BMI(Brain Machine Interface)やBCI(Brain Computer Interface)とよばれる技術です。人や動物の神経系から発せられる電気信号をコンピュータに取り込んで、ロボットを動かしたり、いわば考えるだけで、マウスのカーソルを移動させたり、クリックしたりすることが可能になりました。工学と医学の融合領域で、まさにSF並の、さまざまな実験・応用が試みられようとしています。
『現代思想』の特集では、脳神経科学が行き着く先は、フーコーが説いた「生政治=Biopolitics」(政府が全国民の生を管理する)につながるのではないか、という考えをもった人がけっこういて、僕もかなり近い考えをもっています。どこに出てきたかは覚えていないのですが、Noopolitics(精神あるいは魂の政治)という妙な言葉を持ち出している人もいたりして、ふーんと思いました。
『現代思想』の記事で、ほかの執筆者とは明らかに異質な記事を投稿していたのが、Production I.G.で「攻殻機動隊S.A.C.」などの脚本を書いている、櫻井圭記さんの「複合する私たち 四人称の未来へ」です。きっとこうなんじゃないか、という櫻井さんの直観が、散りばめられている文章ですが、僕は理論武装100%の文章よりも、こういう文章のほうが100倍面白いと感じました。冒頭で櫻井さんの生い立ちが語られ、ロンドンで体験した英語の人称変化の不思議や、ブーバーの「我と汝」、アイヌ語に四人称があること、などなどが述べられています。文体がとても滑らかで読みやすいです。櫻井圭記さんは、以前僕が所属していた立花隆ゼミの、2006年の五月祭企画「INNOCENCEに見る近未来科学」で作家の瀬名秀明さんとの対談があり(オリジナルとコピーのはざまで─ゴーストが宿る場所─)、僕はそれを聞きに行きました。
さて、こうして長々と人称代名詞にまつわる思い出バナシをしているのには理由がある。脳神経科学の領域で昨今話題になっているBMI技術が近い将来にもたらすかもしれない「脳‐ネットワーク社会」においては、僕たちの意識の有り様は変容し、「四人称」とでも称すべき新たな感覚が生じるのではないか、と個人的に妄想するからである。(「複合する私たち」、櫻井圭記、『現代思想』)
「四人称」という、新たな人称が出現するというのは、一見タダの夢想にしかみえません。しかしながら、日々インターネットに接していて、毎日欠かさず書き込みをして、「痕跡」を残している人間にとっては、実は感覚としてもう「当たり前」のことなのかもしれません。現実世界とは違う、仮想世界での「つながっている」感覚は、インターネットが出現した10年前くらい、というかむしろ、ドコモのi-modeが普及したあたりから日常的なものになっていた気がします。twitterなんかを熱心にやっていると、すごくよくわかると思います。
ところで、櫻井さんは、脚本を担当した『攻殻機動隊S.A.C. TRILOGY-BOX (Blu-ray) (初回限定生産)
』のタイトルのネーミングについて、こんな風に書いています。
個にして全、全にして個、という関係がどこまでも階層化されたホロニックなネットワーク構造の中で、新たに現れてきている主体(らしきもの)に、僕たちは何とかして新しい名前をつけたがっているのである。ネットから切り離され、個体として自立する「スタンド・アローン」な各人の形成する複合体「コンプレックス」とは、まさしく、一人称でありながら、同時に三人称でもありうる、四人称的な世界観のことに他ならない。
(同上)四人称というのはつまり、グノーシス主義の言い換えなのでしょう。僕も一時期、この考えにけっこう関心があったことがありました。要するに、「あなたはわたし。わたしはあなた。全ては今ここに存在し、全てはわたしのなかにある。」ということ。自己と他者の境界がなくなることは、自己が崩壊するリスクがかなり高いわけです。
いま、ほぼ同時に読んでいるのが、橋本治の「いま私たちが考えるべきこと
」。いま私たちが考えるべきことは、じつは私たち自身のことだ、というのがこの本の主題なのですが、冒頭の「はじめに」で興味深いことが述べられいます。
自分の外にはすごく大きな「人の集団」があって、そこでは、「私たち」という一体感のある言葉が、あたりまえに使われています。
(中略)
何かは共有出来ているし、時々は深い意見の一致もあるけれど、「一人称複数の一体感」はあまりない―かえって逆に、その一体感をわたしは避けようとしています。それは、「一人称複数の一体感」がない方が、個人的で自由にしていられるような気がするからです。
(中略)
私一人と外側との関係は、「全体vs.個」で「全体vs.孤」ですが、たまさかに「ボクたち」だったり「オレたち」だったりする友人たちと、その外側との関係もまた、「全体vs.個=孤」です。
(「いま私たちが考えるべきこと」、橋本治)非常に接点がある、クロスリンクしたこの二つ文章を読んで、ああ、僕の考えていたようなことはこんなことだったのかな、と思いました。たまたま図書館で借りた橋本治さんの本に、こんなことが書いてあるとは思いもよりませんでした。トピックは「私」と「私たち」から、「私」と「私たち」と「社会」に移ります。
「私」は「私たち」の一員ではあるけれど、しかし、その「私」の所属する「私たち」は、実のところ、一体感の持てない「彼ら」でしかない―こういう断絶があって、それが何度も繰り返されるのです。
「私」は「社会」の一員だが、しかし、その「私」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
「私たち」は「社会」の一員だが、しかし、その「私たち」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
(同上)人間は社会性のある生物だと言われます。つまり、動物行動学的にみて、「群れをなす」動物だということができます。僕たちは日常的に、群れる=仲間と一緒にいることは自覚的にできます。いつも一緒にいる仲間というのは、たぶん、自分とどこか似ているところがあったり、気があったりして、共に行動することで気分が落ち着きます。でも、どこからどこまでが仲間なのか、ということを考え出すと、僕たちが所属している社会とはなんなのか、ということに考えが至ります。社会には、「僕」が知らない「仲間」がいるかもしれないし、これまでいたのだし、絶対いるはずです。それと同時に、「僕」とは相いれない「敵」や不和をもたらす人間がいることも間違いないわけです。つまり、社会というのは、潜在的な「仲間」が適度に配合された七味唐辛子が入った容器のようなもので、僕たちは、そのスパイスの粒を見分けて、どれが自分との相性がいいかを判断するのだと思います。
ポストモダンな現代思想の世界ではよく、「哲学の社会学化」が言われています。結局、哲学者=自分たちのように「哲学」をやる人が世の中にそんなにいないのではないか、という<不安>が、周りの人は何を考えているんだろう、という<疑問>に代わって、社会学っぽくなるんじゃないかと僕は思ったりしています。
そういうわけで、収拾がつかなくなってきたのでこの辺で筆を置くことにしますが、複数の人間から形成される、人間を超えた何かに思いを巡らすことは、すごく面白いですね!!それこそが「歴史」なのかもしれません。
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おくやみ
Posted on 7月 11th, 2008 No comments「太陽ニュートリノに質量がある」という、ノーベル賞級の発見をした、素粒子物理学者の戸塚洋二氏が、昨日亡くなりました。享年66歳。死因はがんによる多臓器不全。戸塚氏は静岡県富士市出身です。同じ県出身の僕は、高校2年の春、つまり2003年3月15日、高校の同窓会の企画した講演会で、戸塚氏の講演を聴きました。日時を正確に記銘しているのは、講演終了後、戸塚氏に色紙にサインをもらいに行って、日時も記入してもらっていたから。そして、それを上京するときに持ってきていたから。いわゆる願掛けというものです。講演では、電子ニュートリノやμニュートリノやτニュートリノなど、科学雑誌”Newton”で読んだことはあっても、得体のしれない、聴きなれない用語がたくさん登場して、中学生のころから自称・科学マニアだった僕は、たいへん感激したことを覚えています。その前年の2002年は、戸塚氏の研究プロジェクトのボスだった、小柴昌俊氏がノーベル物理学賞を受賞しています。戸塚氏や小柴氏がニュートリノ研究を行っていた、岐阜県にある、神岡鉱山地下の「スーパーカミオカンデ(KAMIOKANDEとは、Kamioka+NDEの意)」から、ノーベル賞が再び出るとすれば、間違いなく戸塚氏に贈られるであろうということは、関係者ならずとも周知の事実でした。実際、ノーベル賞受賞者が予測される場では、戸塚氏の名前が頻繁に出てきました。
戸塚氏が現場を意外なほどに早く退き、東大からも職を離れたのは、病気の療養のためだったと思われます。貴重な素粒子物理学のパイオニアを66歳という年齢で失うことは、日本のアカデミアにとっては、大きすぎる痛手です。もっとはやく、戸塚氏にノーベル賞を受賞してもらいたかったと、正直に思います。
ご冥福をお祈りします。
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火星で氷の存在を確認!
Posted on 6月 21st, 2008 No comments
Yes, there’s ice on Mars
“Ice!” screams NASA’s Phoenix lander.
火星に着陸した、NASAのPhoenix Mars Landerが、火星の地面をかじりとり、氷が存在することを見つけました。氷であるとはっきり判別できたのは、その物体が、2-3日で消失したためです。もしもそれが塩の結晶だったら、消えることはないからです。
twitterにいるMarsPhoenixのコメント。
Whoohoo! Was keeping my eye on some chunks of bright stuff & they disappeared! Sublimated! So it can’t be salt, it’s ice
05:23 PM June 19, 2008 from webPhoenixの想像図。
わたしたちの「宇宙時代」は、まだまだ黎明期です。<紀元>前といったほうがいいのかもしれませんが、これからいろいろな何かが始まりそうな気がしています。
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同性愛、人肉食、死刑執行
Posted on 6月 19th, 2008 No commentsCalifornia Gay Marriage: What It Means for You and Me Legally – gaywired.com
“As of 5:01 on Monday June 16, 2008 marriage will be available equally to all adult couples irrespective of sexual orientation,” says Pizer, who also advises policymakers in Sacramento and nationwide on laws to protect domestic partners and co-drafted AB 205, California’s comprehensive Domestic Partner Rights and Responsibilities Act of 2003.
“[Today] We will see the first marriages performed in California for gay and lesbian couples with the full backing and endorsement and official civil blessing of the state. Those marriages will be as legal and valid and important under California law as any other marriages and there’s no residency requirement,” Pizer says.
(from gaywired.com)
アメリカ合衆国カリフォルニア州で、同性結婚が合法化されました。合衆国各地から、同性愛カップルたちが、カリフォルニア州に、文字通り、駆け込んでいるそうです。ゲイは、いまや喫煙者よりも市民権を獲得したといっても過言ではないでしょう。社会的抑圧はまだまだ消えないでしょうが、彼ら彼女らは、どこか生き生きと見えます。
“Gay Genes” May Be Good for Women
ScienceNOWでは、ゲイ(男性の同性愛者)の遺伝子に関する研究が紹介されています。「ゲイは(部分的な)遺伝的素因である」ということが、20年近く前から言われているそうですが、いまだに、どの遺伝子が原因で、ゲイになるのか、ということはよくわかっていません。男性の同性愛者は、残す子孫の数が普通の男性(=ノンケ)よりも圧倒的に少なく、進化的にみて不利なはずなのに、どうして人口の中で一定の数を占めるているのでしょう。不思議ですね。この疑問(Gay Paradox)を解決する、あたらしい仮説が唱えられました。それは、「男性がゲイの遺伝子をもっていると、同性愛者になるように働く一方、女性が同じ遺伝子をもっていると、子孫をたくさん作りやすい」というものです。なるほど(!)という感じです。この研究を報告したのは、イタリアの遺伝学者。イタリア人は情熱的。イタリアはカトリックだから、同性愛は教義に背いていると考えている人が多いのでしょうか。とうてい、日本では、こういう研究をやってみようとは思いもしないでしょう。
論文は以下のリンクから見ることができます。
Sexually Antagonistic Selection in Human Male Homosexuality宗教的社会的タブーには、かつての男色、同性愛、死、近親相姦、殺人、強姦など、肉体としての人に関する事項がたくさんあるように見えます。その一つに、人肉食=Cannibalismがあります。カニバリズムというと、まず思いつくのは、人食いハンニバルのハンニバル・レクター博士。トマス・ハリスが生み出したキャラクターです。それ以外にも、フィクションの題材として、カニバリズムがよくつかわれています。たとえば、舞城王太郎の『山ん中の獅見朋成雄』。読んだことはありませんが、大岡昇平の『野火』。江戸川乱歩の『闇に蠢く』。夢野久作の『人間腸詰』。ノンフィクションでは、辺見庸の『もの食う人びと ミンダナオ島の悲劇』。図書館で借りた『世界の名著 モンテーニュ』にも、「人食い人種について(エセー・第Ⅰ巻・第31章)」というタイトルの文章がありました。
実際に起きた事件では、1988年から1989年にかけて発生した、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件。通称M事件。1985年生まれの僕自身が<幼児>のころに起きた事件なので、まったく記憶はありません。その事件の犯人であるMの死刑執行が、2008年6月17日に行われました。今回の死刑執行が、2008年6月8日の秋葉原無差別殺人事件のために早まったのではないか、という憶測があるようです。そうなのかもしれません。Mが小児愛者=pedophiliaだったのかどうかはよくわかりませんが、社会認識として「オタク犯罪者」だといわれているのは確かです。なんというか、「オタク⇔犯罪者の素質が十分にある」という観念が確立しきってしまったようです。現代日本において、オタク、アキバ、アニメ、美少女ゲー、エロゲーなどというフレーズは明らかにタブーになってしまっています。
オタクにとっては、本当、生きにくい時代です。


