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  • SYNECDOCHE, NEW YORK

    Posted on 12月 7th, 2009 Yohei No comments

    2009年12月になりました。
    12月4日、渋谷シネマライズにて「脳内ニューヨーク」を観てきました。
    今年、僕はたくさんの映画を観てきましたが、
    この、「脳内ニューヨーク(原題はSYNECDOCHE, NEW YORK)」ほど、
    価値観を根こそぎ変えてしまう映画にであったことはありませんでした。
    価値観を変えるというよりは、壊すという表現が近いかもしれません。

    主演はフィリップ・シーモア・ホフマン。
    監督はチャーリー・カウフマン。

    僕は、好んで幻想文学の短編を読むのですが、その書き手たち、たとえば、
    フランツ・カフカ、ディーノ・ブッツァーティ、ガブリエル・ガルシア=マルケス、
    日本でいうと内田百閒が挙げられますが、彼らの短編を124分という時間尺に
    濃縮したような、異次元の世界観がこの映画では描かれています。

    しかも、幻想文学にみられる手法の一つもみられます。
    それは変動する不安定な時間間隔、あるいは非線形的時間軸というべきもので、
    主人公ケイデン・コタード(アルファベットではCotard。おそらくGodardのもじり)の
    病と老いの進行と現実世界、
    そして現実世界を模倣した劇場(=SYNECDOCHE)でのやりとりが
    それはもう入り乱れていくわけです。

    また、この作品では人間関係、つまりそれは人の一生をベースにした関係ですが、
    ある人との関係は、その人が生きているあいだずっとつづく、そして、
    ある人が亡くなった後も、自分が生きている限り、ある人がいないという事実(=不在)
    という形式をとって、永遠に続くのだということにフォーカスが当たっています。

    例を挙げると、ケイデンの最初の娘オリーブは、離婚したケイデンの元妻とともに
    ケイデンの家を出ていくわけですが、オリーブが4歳のときに枕元に残したダイアリーが、
    そののちに成長したオリーブの声とともに、ケイデンに現状を伝える描写があります。
    つまり、ダイアリーがその綴り手であるオリーブのもとにないにもかかわらず、
    それを手にしているケイデンに遠隔的に内容を知らせる働きをしていることになるのです。

    オリーブに直接会うことが許されないのに、オリーブのことを考えない日はないのです。
    オリーブがいないということが、ケイデンにものすごい重圧としてのしかかってきます。

    ケイデン以外の誰か死は、数多く描かれますが、無数ではなく、かならず
    ケイデンと関わりをもった人たちが死んでいきます。

    死の描き方は、新聞の訃報欄やテレビのニュースでのコメント、
    そして、何回も出てくる葬式の場面の中に現れます。
    誰かの葬式に参列する面々は、死者によって違ってくるわけですが、
    ケイデンはつねに誰かの葬式に参列しているわけです。

    ものすごく考えさせられる一方、
    幻想文学的な世界観、それは理性的思考を一切拒絶する、
    もしくは停止させるものですが、感性をつかってしか
    触れることのできない場所に入っていける映画でした。

    本当に奇跡的な映画でした。

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