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リアリズム
Posted on 4月 16th, 2009 No commentsその家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない。物置のようなひんまがった建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手のわからぬ子供を孕んでいる。(『白痴』、坂口安吾)
戦後リアリズム文学の旗手である、坂口安吾の代表的作品、『白痴』の冒頭です。この前も書きましたが、最近、坂口安吾の小説をけっこう読んでいます。坂口安吾は、人間と家畜を同等とみなすこともはばからないような、断定的な表現を多く使います。坂口安吾の作風と近い、太宰治の『人間失格』を中学の頃だったか高校の頃に読んで(もうだいぶ昔!)、なんだかさっぱりだったということだけ覚えていますが、「結局人間なんてこの程度のものだ」というメッセージを受けました。かといって徹底的にニヒリストかというとそうでもない。それを知りつつも落伍者に甘んじている。太宰治はもう一度読み返してみたいと思います。あのころよりはちょっとは大人になったいま読むと、意味がわかるのかも知れません。
ところで、坂口安吾という作家は、東洋大学で印度哲学を専攻して、梵語やパーリ語やチベット語を学んだそうです。大学に入学してしばらくは「悟る」ことを目標に励んでいたとか。それで結局悟れなくて、フランスに留学。その後「風博士」で一躍新進作家として認知されます。
本を読んでいると、いまでは決してお目にかかれないような極端に「差別的な」表現もたびたびでてきます。痴呆という表現がもはやなくなり、認知症といわなければいけなくなった現在とは隔世の感があります。傴瘻(セムシ)という言葉も出てきて、わたしたちが聞いても良く分からない性質をもった人というものが昔はいたそうです。いまでは治療可能な病気も、昔は治せなくて、いろいろな持病や身体的特徴をもった人が近くに住んでいたんだろうなあと思いました。そういう意味で、現在は均質になったというか、フラット化したというか、文学的題材が減ったんではないでしょうか。それが良いのか悪いのかは別ですけれど。
でも、いま読んでも十分わかる普遍的なテーマがたくさん扱われています。それは人間のつながりであったり、愛憎であったり、男と女であったり。「人間関係が希薄になった」といわれる昨今ですが、坂口安吾の文学に触れてしまうと、自分の人間関係は薄すぎるんじゃないかという気になります。感情の機微が人物の発する言葉に映し出される様子に驚かされます。「肉慾」という言葉が何度も出てきて、ぎょっとしますが、現代文学にありがちな官能的な描写はかなり少ないです。ですが、下の引用文を読むと、欲求に対する本質的即物的な印象を受けませんか?
私は女が物を言わない人形であればいいと考えた。目も見えず、声もきこえず、私の孤独な肉慾に応ずる無限の影絵であってほしいと希っていた。
そして私は、私自身の本当の喜びは何だろうかということに就て、ふと、思いつくようになった。私の本当の喜びは、あるときは鳥となって空をとび、あるときは魚となって沼の水底をくぐり、あるときは獣となって野を走ることではないだろうか。(『私は海をだきしめていたい』、坂口安吾)
というわけで、今回は坂口安吾についてでした。日本推理小説史上最高の傑作といわれる、坂口安吾の著作『不連続殺人事件』も図書館で借りて読んでいます。昔は推理小説・ミステリ小説とはいわず、探偵小説といっていたそうです。いま、4人殺されたところまで読みました。あらすじによると8人死ぬということです。並行して、伊坂幸太郎も読んでいます。『チルドレン』から読んでいます。丸善のおすすめコーナーでボリス・ヴィアンの『心臓抜き』が紹介されていて、気になったので借りて読んでいます。しばらくは、リアリズム文学に浸ってみようと思います。ゲーム的リアリズム(舞城王太郎ら)のほうはしばらく控えめにします。
