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  • リアリズム2

    Posted on 4月 24th, 2009 Yohei No comments

    足の中指に腫れ物ができていた―窮屈な靴をはくのはやめなければならない。習慣になっているかのような慣れた手つきで、ポケットからねじ回しを取り出し、彼は腫れ物の芯を取り除いた。そしてそれを慎重に青い色の―夢にも色があるのだろうか?―箱に収めた。傷口から油のついた黄色い紐の端がのぞいていた。そこに紐が出てくることをあらかじめ知っていたかのように少しも驚いたふうを見せずに、彼はゆっくりと慎重に紐を引き出していった。それは非常に長い紐だったが、なんの痛みも不快感も伴わずにするすると出てきた。
    (『死の向こう側』、ガルシア=マルケス著)

    前回のつづきです。魔術的リアリズムの旗手ボルヘスとともに有名な南米出身のガルシア=マルケスの短編を読んでいます。

    つい先日中編の『予告された殺人の記録』を読み終えて、「サンティアゴ・ナサールの殺人」をめぐる時間の順序の入れ替えの巧妙さに唸りました。通常のミステリとは違った緊迫感を味わうことができました。一番「うまい」と思ったのは、語り手である「私」の位置。被害者の友人であり、殺人犯(双子)のいとこでもあるという設定なんです!小説家ってホントによーく考えて文章作ってるんだなと思いました。

    そして、冒頭の『死の向こう側』について。こちらは初期の作品ということですが、物語のもつ雰囲気に瞬時に引き込まれていきます。ページ数にして10という、つかの間の読書体験のなかで味わうスリル。そのハイライト(と感じたところ)が引用部分の夢のなかのイメージです。腫れ物の芯をとると出てくる「黄色い紐」。ガルシア=マルケスの作品は「腫瘍」「心臓の鼓動」「神経の緊張」「身体の組織」など、解剖学的用語や生理学的用語が多く使われています(本篇の最後には「アルブミン」という言葉が出てくるほど)。

    わたしたち各人にとってもっとも身近でかつ信用できる身体からでてくる不自然で異様なもの。しかしそれはたしかに紐で、紐それ自体に関しては、とかく有害ではない。異様なのは、紐が≪自分の体のなかから≫出てくること。絶対信頼できるはずの自分の体に誹られる感覚。これほど奇妙なものはないでしょう。そしてそれは、暗に無制限に増殖する癌細胞の喩えになっています。この事実にハッとさせられました。

    カフカの短編『田舎医者』では、主人公の医師が往診に行った家の男の子のお腹に「花(バラだったような?)」が咲いているのを見つけます。体から出てくる「身近だけれどそこにはありえないもの」という表現手法は意外とたくさんの作家が使用しているものです。舞城王太郎の『ドリルホール・イン・マイブレイン』でも、主人公の陰部に白い花が咲きます。

    幻想文学の表現を学ぼうと思いました。

  • リアリズム

    Posted on 4月 16th, 2009 Yohei No comments

    その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない。物置のようなひんまがった建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手のわからぬ子供を孕んでいる。(『白痴』、坂口安吾)

    戦後リアリズム文学の旗手である、坂口安吾の代表的作品、『白痴』の冒頭です。この前も書きましたが、最近、坂口安吾の小説をけっこう読んでいます。坂口安吾は、人間と家畜を同等とみなすこともはばからないような、断定的な表現を多く使います。坂口安吾の作風と近い、太宰治の『人間失格』を中学の頃だったか高校の頃に読んで(もうだいぶ昔!)、なんだかさっぱりだったということだけ覚えていますが、「結局人間なんてこの程度のものだ」というメッセージを受けました。かといって徹底的にニヒリストかというとそうでもない。それを知りつつも落伍者に甘んじている。太宰治はもう一度読み返してみたいと思います。あのころよりはちょっとは大人になったいま読むと、意味がわかるのかも知れません。

    ところで、坂口安吾という作家は、東洋大学で印度哲学を専攻して、梵語やパーリ語やチベット語を学んだそうです。大学に入学してしばらくは「悟る」ことを目標に励んでいたとか。それで結局悟れなくて、フランスに留学。その後「風博士」で一躍新進作家として認知されます。

    本を読んでいると、いまでは決してお目にかかれないような極端に「差別的な」表現もたびたびでてきます。痴呆という表現がもはやなくなり、認知症といわなければいけなくなった現在とは隔世の感があります。傴瘻(セムシ)という言葉も出てきて、わたしたちが聞いても良く分からない性質をもった人というものが昔はいたそうです。いまでは治療可能な病気も、昔は治せなくて、いろいろな持病や身体的特徴をもった人が近くに住んでいたんだろうなあと思いました。そういう意味で、現在は均質になったというか、フラット化したというか、文学的題材が減ったんではないでしょうか。それが良いのか悪いのかは別ですけれど。

    でも、いま読んでも十分わかる普遍的なテーマがたくさん扱われています。それは人間のつながりであったり、愛憎であったり、男と女であったり。「人間関係が希薄になった」といわれる昨今ですが、坂口安吾の文学に触れてしまうと、自分の人間関係は薄すぎるんじゃないかという気になります。感情の機微が人物の発する言葉に映し出される様子に驚かされます。「肉慾」という言葉が何度も出てきて、ぎょっとしますが、現代文学にありがちな官能的な描写はかなり少ないです。ですが、下の引用文を読むと、欲求に対する本質的即物的な印象を受けませんか?

    私は女が物を言わない人形であればいいと考えた。目も見えず、声もきこえず、私の孤独な肉慾に応ずる無限の影絵であってほしいと希っていた。

    そして私は、私自身の本当の喜びは何だろうかということに就て、ふと、思いつくようになった。私の本当の喜びは、あるときは鳥となって空をとび、あるときは魚となって沼の水底をくぐり、あるときは獣となって野を走ることではないだろうか。(『私は海をだきしめていたい』、坂口安吾)

    というわけで、今回は坂口安吾についてでした。日本推理小説史上最高の傑作といわれる、坂口安吾の著作『不連続殺人事件』も図書館で借りて読んでいます。昔は推理小説・ミステリ小説とはいわず、探偵小説といっていたそうです。いま、4人殺されたところまで読みました。あらすじによると8人死ぬということです。並行して、伊坂幸太郎も読んでいます。『チルドレン』から読んでいます。丸善のおすすめコーナーでボリス・ヴィアンの『心臓抜き』が紹介されていて、気になったので借りて読んでいます。しばらくは、リアリズム文学に浸ってみようと思います。ゲーム的リアリズム(舞城王太郎ら)のほうはしばらく控えめにします。

  • さくら

    Posted on 4月 4th, 2009 Yohei No comments

    もう4月ですね。

    私は3月末は実家に帰ってゆっくりしていました。

    といっても、完全に休んでいたのではなくて、
    ちょっと復習などもしていました。

    ウォッチメンを観る

    実家の最寄駅(といっても歩いて30分はかかる)のJR東海本線の駅近くに新しく複合商業施設がオープンしたので、そこに行き、最上階のシネマコンプレックスで上映していた「ウォッチメン」を観ました。

    「ウォッチメン」は、評判通り「300」をとった監督の最新作とあって、格闘シーンはとても見ものでした。しかしながら、ストーリー的に「?」と感じる個所がいくつかありました。アメコミが原作なのですが、「スパイダーマン」や「Xメン」のMARVELとは違い、「スーパーマン」や「バットマン」のDCシリーズは、ヒーローでも苦悩するというか、「ヒーロー」という存在自体を疑う作品が多いような気がします。

    時代背景的には、第2次大戦期の1940年代からベトナム戦争をとおって冷戦期の1985年が舞台ということになっています。「ヒーロー行為」が規制されるようになったあと、かつてのヒーローたちが互いに懊悩する様が描かれています。

    私としては、評価は☆☆☆☆★でしたが、一緒に観た母と妹は、過激で残虐な描写が多かったせいか、「・・・・」という印象でした。

    その夜に映画を観る

    その日の夜遅く、TVで「亀は意外と速く泳ぐ」が放送されていたので、観ました。キャストは上野樹里と蒼井優ほか。懐かしい感じの海辺の町が舞台の、いわゆる「おちなし」型の映画でした。フィルムが焼きついた感じというか、フレームの端がぶれている感じがしましたが、どういう技法を使っているのか気になりました。

    電車内で本を読む

    行きと帰りの電車で、カフカ『審判』の第1章と、川上弘美『溺レる』の短編いくつかと、坂口安吾の『風博士』と『風と光と二十歳の私と』と『堕落論』を読みました。日本文学って底が厚いですね。とくに初期は。

    新しいカメラレンズを試す

    帰省する前にamazonで購入して宅配で受け取ったレンズに交換して、カメラをもっていったのですが、予想していたよりもはるかに表現の幅が広がったというか、F値1.8で撮影した写真の「それっぽさ(=写真雑誌で見るような)」をつかむことができたように思います。

    そのうえ、祖父や祖母がとてもよい(笑)被写体になってくれたおかげで、撮影方法をたくさん試すことができました。なかなかの作品がとれた気がするので、フォトコンテストに応募してみるのもいいなと思っています。下は、桜のトンネルができる瀬戸川の河原沿いで撮った写真です。

    sakura