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  • 立ち返ってくるところ

    Posted on 2月 2nd, 2009 Yohei No comments

    何かを考えたり、思い悩んだりするとき、何回も立ち返ってこられるところがあると楽である。僕の場合、その役割を果たしてくれているのは、『ゲーテ格言集』であり、『人生論ノート (新潮文庫)』である。『人生論ノート』の三木清は前に引用したことがある。三木清は、ハイデッガーに師事したことのある哲学者・社会評論家・文学者で、『善の研究』の西田幾多郎とも関わりが深い。『人生論ノート』は、死について/幸福について/懐疑について/人間の条件について/孤独について/等々の短い章ごとに分かれて書かれたメモのようなもので(アフォリズムという)、いつでも気軽に読み返すことができる。三木清はおそらくものすごい量と質の文献を読んでいるのに違いないが、『人生論ノート』に書かれた言葉の数々は驚くくらいシンプルだ。三木清の言葉を支えているのは、彼自身の直観なのだと思う。これは、生まれもった才能といっていいくらいだ。

    つい一日前に読んだ箇所は、「感傷について」。これを読んでみると、感傷(もの思いとほぼ同義)のもつ甘美さとともに、その潜在的な危険性について知ることができる。

    すべての趣味と同じように、感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。それは出来つつあるものに対してでなく出来上ったものに対して働くのである。すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。感傷的な人間は回顧することを好む。人は未来について感傷することができぬ。少くとも感傷の対象であるような未来は真の未来ではない。
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    感傷は主観主義である。青年が感傷的であるのはこの時代が主観的な時期であるためである。主観主義者とは、どれほど概念的或いは論理的に装おうとも、内実は感傷家でしかないことが多い。
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    行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。
    (『人生論ノート』、三木清)

    <行動人としての思想家>というフレーズにとても感銘を受けた。ただ論理的に振る舞っていても、仕方ない。非常にストレートにメッセージが伝わってきた。感傷的になっていても、それは創造を伴わないということ。

    三木清の文献は、青春文庫で読むことができる。本として容易に手に入りそうなものには、『語られざる哲学』や『哲学入門』があるみたいだ。

    Act As A Thinker.

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