二週間近く記事を書いていませんでした。ぼくが通っている大学では、9月の終わりから10月の初めにかけて、なだらかに前期から後期への移行が完了したところです。
いろんなことがありました。
情報爆発に関するシンポジウムに行ったり、
横浜トリエンナーレ2008を見に行ったり、
自然科学研究機構シンポジウムを聴きに行ったり、
未知検体実習で夜遅くまで腸管や心臓の収縮を見たり、
実験動物の慰霊祭で献花をしたり、
祖父の一周忌で実家に戻ったり、
ちょうど同じ日にもう片方の祖父が退院したり、
実家の側の草むらの草刈りをしたり、
母親にiPod nano(ひとつ前の世代)を選んで使い方を教えてあげたり、
実習のデータをまとめたり、パワーポイントファイルを作ったり、
レポート書いたり、薬理学勉強したり、
脂質とアミノ酸とプリン・ピリミジン代謝経路を学んだり、
なんというか、もういろいろありました。
たまには、きわめて個人的なことを書いてみたりします。
じつは、「今日何をした」というのは、ビジネス手帳に今年の初めから書いていて、なぜか今まで続いています。記憶の補充と出来事の整理。ひょんなところで誰にあった、とかいうのは思い返すと面白いものです。
ところで、日本で書かれているブログには、二つのタイプがあると言われます。ひとつは、ニュースサイトなどの引用記事。ネタがないものかとネットを巡回して見つけた記事にリンクしてコメントする形式です。もうひとつは、SNS的なプライベートな日記。自分と自分の周りの何人かで完結してしまう時空間での出来事。このブログ(=EXTRA PLANET BLOG)はどちらかというと前者。写真などがメインになっていることもありますが。一方で、欧米に多いのが、思想・政治信条について自らの意見を述べるタイプのブログだと言われます。欧米人らしく、ロジックで自分の言いたいことや考えていることを思いのままに表明するタイプ。日本でも、若い世代の哲学系の人たちや作家業を営んでいる人たちがこのタイプのブログを書いていますが、全体的にみて数は少ないと思います。
僕は、せっかくなので、多くの人に読んでもらえるような、共感してもらえるような文章を書きたくて、レンタルサーバでドメインもとって、Wordpressでブログ執筆をしているのですが、やはり内容が引用や雑感や日記になりがちで、歯痒い思いをしています。とは言うものの、引用は癖になります。どの本を見ても、冒頭から数ページ目には小さく、昔の人の偉大な言葉が書いてありますよね。
“Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.” - Oscar Wilde
正直に言って、自分で自分の考えを作り出すことは、本当に難しいことです。かの文豪ゲーテのように、珠玉の言葉の数々が湧き出てほしいと何度願ったことでしょう。しかし、ショウペンハウエルは以下のように書いています。
ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついたひとにとってのみ価値をもつ。ただ少数の思想のみが、読者の反響を通じて働き続ける力をもつ。言い換えれば、書きおろされた後にも読者の関心を奪う力をもつ。
(『読書について 他二篇』「思索」より)
何世紀も前から読み継がれてきた書物というのは、その著者自身がすごいというのもさることながら、幾多の文筆家・思想家が著した書物の中から、何世代もの読者の支持を得て、何度も印刷されて、何ヶ国語もの言語に翻訳されて、いわば選別の網を掻い潜ってきました。昔の人がとっくの昔に考えた思想に、自分で考えた挙句たどり着くことができれば、すこしはマシなほうだ、とショウペンハウエルは言っています。引用ばかりに頼っている僕としてはちょっとした救いです。
同じ文章の中で、この思想家はこんな素敵なことも書いています。
現実の国では、いかに美しい幸福、快適な生活に恵まれても我々は常に重力の影響下に動いているにすぎず、たえずこの影響にうちかたなければならない。だが思想の国では、我々は物体ならざる精神であり、重力という必然の重みから免れる。そのため地上のいかなる幸福も、美しい豊かな精神が時をえて自らのなかに見出す幸福には比すべくもない。
思想というものがもっている軽快さと浮遊感。僕が好きな言葉では、アンリ・ベルクソンが言う「生の飛躍=élan vital」。フリードリヒ・ニーチェだと「力への意志」。ヴァルター・ベンヤミンは文学的作品や芸術作品には「アウラ」が宿っているようなことを言っているし、見えなくて重さがないものへの畏敬はいたるところに見受けられる。世の中は、目には見えない形而上学的な物事で騒々しい。
とりとめなくなってきたので、この辺にしておきたいと思うけれど、ブログには、将来のこととか、これからやらなければならないこと・やりたいこと・やってみたいこととか、願いとか、こうなってほしいみたいなことを書いてもいいと思う。
2008年も秋に入り、世界を金融不安が駆け巡っていて、1929年の世界恐慌をある意味超えたらしいことをメディアは伝えているけれど、僕たちといえば、原油価格が下がってガソリン価格も下がるみたいだとか、日本の銀行がアメリカの証券会社を買収してすごいなとか、友達の友達が勤めている外資系証券会社の日本法人が破産申請で大変なことになってるとか、いろんなことを考えている。それを考えているときを除けば、いつもどおり何気なく過ごしている。気温が20℃を下回って寒くなってきたので衣替えをしなければならないし、携帯電話は充電しておかなければならないし、ごみは分別して出さなければならない。6000兆円を超える投機マネーはいったいどこに行ったんだろう??
現実感。自分が生きているという感覚を感じるのは、素晴らしいものに触れて感動したとき。あるミッション系の大学に行くようになって、いままでの自分にはなかった感受性の一部分が開けてきたように思える。できれば毎日感動したい。感動できるものを見つけて過ごしたい。感動したものを覚えていたい。人を感動させる方法を身につけたい。できることなら、一日一人くらいは、新しい人と親しくなりたいと思う。知人の新しい一面を知りたいと思う。自分の新しい部分を発見したいと思う。いま生きている人に残された時間は有限で、身体は一つしかない。「いま、ここ」にしか自分はいないし、「いま、ここ」を生きることしかできない。それでも、僕には僕の個人史がある。僕の家族にも家族の歴史があって、僕の先祖代々にも先祖代々の歴史がある(あ、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んでみるといいかもしれない)。それと一緒に、日本史と世界史には、アウストラロピテクスがいた太古から近現代に至るまでの脈々としたストーリーがある。生物の進化史はそれより長く、地球になるとおよそ46億年。(この)宇宙はおよそ137億年。いくらなんでも話がとびすぎではあるけれど、とんでいるのは思考だけで、僕の生物学的な体はどこにも移動していない(地球の自転・公転と宇宙の加速度的膨張を除いて)。「思考」がもっている特筆すべき性質は、さっきも言ったとおり、重さがないことと、飛躍できること。
こんなことを考えていた。
知恵は、これを捕える者には命の木である、
これをしっかり捕える人は幸いである。
主は知恵をもって地の基をすえ、
悟りをもって天を定められた。
その知識によって海はわきいで、
雲は露をそそぐ。
(『聖書』箴言 3.18-20より)



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