今日から夏休みに入りました。
It Must Be Summer - Fountains Of Wayne
Fountains Of Wayne Lyrics
It Must Be Summer Lyrics
高校・大学時代の友人たちが働き始めているなかで、こんなのんきなことを言っている場合ではないかもしれませんが、僕たちが小さかったころから、夏休みスイカ花火海水浴家族旅行夏祭り麦藁帽子!という言葉は、僕たちをとてもワクワクさせてくれる(最近使われる記述方式では、wktk)ものでした。
そもそもどうして、「夏休み」なんていう長期の休業期間があるのでしょうか。この国を含め、東アジアでは、「盆休み」の拡張したものと解釈すればよいのかもしれませんが、欧米でも、7月から9月頃まで、かなり長く休みをとっているところがあります。真夏日や猛暑日が一週間以上続く、気候がほぼ(亜)熱帯化したこの国では、国民の頭脳が暑さに負けて、正常に機能しにくくなるからかもしれませんね。
それでも、自分が高校3年生だったころは、毎日毎日6時間以上(ちょっと強気)、受験勉強に明け暮れたものです。こんなことをして何のためになるのか?なんて、自問自答をする余裕はあまりなかったと記憶しています。いま思えば、もっと思い切った行動をとっても良かったかな(たとえばアーティスト志望とか海外留学とか海外修行とか)と思ったりもします。
ちなみに、僕がこれまでに経験した、最も苦しかった思い出は、高校1年のときの、男子バスケットボール部の夏合宿です。“シャトルラン”という練習があるのですが、信じられないくらい、体育館の床の上を行ったり来たりして走り込んで、汗がものすごく出て、はげしい筋肉痛が出ました。当時は、これが無限に繰り返されるんじゃないかというほどでした。それはほとんど脅迫感に近いもので、練習が終わるたびに、「こんなにきついのが続くんだったら、もう部活をやめよう」と思っていました。結局、3年の6月に引退するまで執念で部活を続けたわけですが、最悪状態のピークは、合宿終了後に発症した、原因不明の肺炎でした。高熱が出て、1週間くらい部活の練習を休みました。しかも胸部CTをとってもらって見せてもらったところ、僕の心臓が異常に大きくなっていて(スポーツ心臓とよばれる)、ちょっとこれはまずいのでは、と自分でも思いました。これが僕が今までに経験したワースト記録です。そのときの部活の顧問のN先生は、いわゆる非常勤の先生で、大学院を出たばかりの新米の先生でした。N先生はすごく厳しい一方、とても思いやりがあるというか、若いだけあって生徒との距離が近く、部員からの信頼は絶大なものがありました。N先生は、僕たちが2年に上がる前に、ほかの高校に正式に教員として移ることになり、短い間ではありましたが、素晴らしい学校の先生として、僕の記憶の中に残っています。
というわけで、長々と思い出バナシを書いてしまったわけですが、念を押してもう一度言います。
僕たちの夏休みはまだ、はじまったばかりだ、と。
いろいろ計画を立てた/立て始めているわけですが、なにも印象に残らない夏休みにしてしまわないよう、そして、収拾がつかないくらい発散しすぎる夏休みにならないよう、重々気をつけたいと思います。
First Day Of My Life - Bright Eyes
暑さが最高潮に達していて、なんともうだつが上がらない(?)日々を送っています。
本を読もうと思っても、息を潜めてページをめくる作業をしていると、とたんに冷たいものが飲みたくなったり、頭がボーっとしてきたり、平静を保つのが難しい毎日です。読みたいものは次々出てくるのですが。
最近、特に僕が注目しているのは、海外の短編小説です。それも、南米のものとか、ロシアのもの。南米では、ボルヘスやガルシア=マルケスなど、すぐれた短編を多数残した作家がいます。ロシアでは、チェーホフ。人づてにチェーホフの良さをききました。暑いときこそ、短時間でさらっと読める、読後感もすっきりとした、短編小説がいいのではないでしょうか。
あいさつはさておき、今回の投稿のタイトルの「わたしとあなたをめぐって」。こんなタイトルを思いついて、ここに書き散らそうと思ったのは、『現代思想(青土社)』の特集、<ニューロエシックス>を目にしたからです。神経倫理=ニューロエシックスについては、ガザニガの「脳のなかの倫理―脳倫理学序説」や脳を活かす研究会をとおして、2年前くらいから耳にしていたのですが、脳神経科学がマスコミやゲーム業界から注目されるようになって、いよいよおもしろいことになってきそうな雰囲気を見せています。
「生命の設計図」であるDNAを解読することによって、生命そのものを制御できるのではないかと、一部の人間が想像したのは、いまから10年くらい前のことだったと記憶しています。生命倫理=Bioethicsいう分野が出現しました。現在議論されている神経倫理=Neuroethicsでは、「思考を読む機械」である脳波計やfMRIやNIRSをつかうことで、人間の思考・行動が支配できるのではないか、という想像が根源にあります。ここ何年かの間で急速に進歩しているのが、BMI(Brain Machine Interface)やBCI(Brain Computer Interface)とよばれる技術です。人や動物の神経系から発せられる電気信号をコンピュータに取り込んで、ロボットを動かしたり、いわば考えるだけで、マウスのカーソルを移動させたり、クリックしたりすることが可能になりました。工学と医学の融合領域で、まさにSF並の、さまざまな実験・応用が試みられようとしています。
『現代思想』の特集では、脳神経科学が行き着く先は、フーコーが説いた「生政治=Biopolitics」(政府が全国民の生を管理する)につながるのではないか、という考えをもった人がけっこういて、僕もかなり近い考えをもっています。どこに出てきたかは覚えていないのですが、Noopolitics(精神あるいは魂の政治)という妙な言葉を持ち出している人もいたりして、ふーんと思いました。
『現代思想』の記事で、ほかの執筆者とは明らかに異質な記事を投稿していたのが、Production I.G.で「攻殻機動隊S.A.C.」などの脚本を書いている、櫻井圭記さんの「複合する私たち 四人称の未来へ」です。きっとこうなんじゃないか、という櫻井さんの直観が、散りばめられている文章ですが、僕は理論武装100%の文章よりも、こういう文章のほうが100倍面白いと感じました。冒頭で櫻井さんの生い立ちが語られ、ロンドンで体験した英語の人称変化の不思議や、ブーバーの「我と汝」、アイヌ語に四人称があること、などなどが述べられています。文体がとても滑らかで読みやすいです。櫻井圭記さんは、以前僕が所属していた立花隆ゼミの、2006年の五月祭企画「INNOCENCEに見る近未来科学」で作家の瀬名秀明さんとの対談があり(オリジナルとコピーのはざまで─ゴーストが宿る場所─)、僕はそれを聞きに行きました。
さて、こうして長々と人称代名詞にまつわる思い出バナシをしているのには理由がある。脳神経科学の領域で昨今話題になっているBMI技術が近い将来にもたらすかもしれない「脳‐ネットワーク社会」においては、僕たちの意識の有り様は変容し、「四人称」とでも称すべき新たな感覚が生じるのではないか、と個人的に妄想するからである。(「複合する私たち」、櫻井圭記、『現代思想』)
「四人称」という、新たな人称が出現するというのは、一見タダの夢想にしかみえません。しかしながら、日々インターネットに接していて、毎日欠かさず書き込みをして、「痕跡」を残している人間にとっては、実は感覚としてもう「当たり前」のことなのかもしれません。現実世界とは違う、仮想世界での「つながっている」感覚は、インターネットが出現した10年前くらい、というかむしろ、ドコモのi-modeが普及したあたりから日常的なものになっていた気がします。twitterなんかを熱心にやっていると、すごくよくわかると思います。
ところで、櫻井さんは、脚本を担当した『攻殻機動隊S.A.C. TRILOGY-BOX (Blu-ray) (初回限定生産)』のタイトルのネーミングについて、こんな風に書いています。
個にして全、全にして個、という関係がどこまでも階層化されたホロニックなネットワーク構造の中で、新たに現れてきている主体(らしきもの)に、僕たちは何とかして新しい名前をつけたがっているのである。ネットから切り離され、個体として自立する「スタンド・アローン」な各人の形成する複合体「コンプレックス」とは、まさしく、一人称でありながら、同時に三人称でもありうる、四人称的な世界観のことに他ならない。
(同上)
四人称というのはつまり、グノーシス主義の言い換えなのでしょう。僕も一時期、この考えにけっこう関心があったことがありました。要するに、「あなたはわたし。わたしはあなた。全ては今ここに存在し、全てはわたしのなかにある。」ということ。自己と他者の境界がなくなることは、自己が崩壊するリスクがかなり高いわけです。
いま、ほぼ同時に読んでいるのが、橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」。いま私たちが考えるべきことは、じつは私たち自身のことだ、というのがこの本の主題なのですが、冒頭の「はじめに」で興味深いことが述べられいます。
自分の外にはすごく大きな「人の集団」があって、そこでは、「私たち」という一体感のある言葉が、あたりまえに使われています。
(中略)
何かは共有出来ているし、時々は深い意見の一致もあるけれど、「一人称複数の一体感」はあまりない―かえって逆に、その一体感をわたしは避けようとしています。それは、「一人称複数の一体感」がない方が、個人的で自由にしていられるような気がするからです。
(中略)
私一人と外側との関係は、「全体vs.個」で「全体vs.孤」ですが、たまさかに「ボクたち」だったり「オレたち」だったりする友人たちと、その外側との関係もまた、「全体vs.個=孤」です。
(「いま私たちが考えるべきこと」、橋本治)
非常に接点がある、クロスリンクしたこの二つ文章を読んで、ああ、僕の考えていたようなことはこんなことだったのかな、と思いました。たまたま図書館で借りた橋本治さんの本に、こんなことが書いてあるとは思いもよりませんでした。トピックは「私」と「私たち」から、「私」と「私たち」と「社会」に移ります。
「私」は「私たち」の一員ではあるけれど、しかし、その「私」の所属する「私たち」は、実のところ、一体感の持てない「彼ら」でしかない―こういう断絶があって、それが何度も繰り返されるのです。
「私」は「社会」の一員だが、しかし、その「私」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
「私たち」は「社会」の一員だが、しかし、その「私たち」の所属する「社会」は、実のところ、一体感の持てない「社会という意味不明」でしかない。
(同上)
人間は社会性のある生物だと言われます。つまり、動物行動学的にみて、「群れをなす」動物だということができます。僕たちは日常的に、群れる=仲間と一緒にいることは自覚的にできます。いつも一緒にいる仲間というのは、たぶん、自分とどこか似ているところがあったり、気があったりして、共に行動することで気分が落ち着きます。でも、どこからどこまでが仲間なのか、ということを考え出すと、僕たちが所属している社会とはなんなのか、ということに考えが至ります。社会には、「僕」が知らない「仲間」がいるかもしれないし、これまでいたのだし、絶対いるはずです。それと同時に、「僕」とは相いれない「敵」や不和をもたらす人間がいることも間違いないわけです。つまり、社会というのは、潜在的な「仲間」が適度に配合された七味唐辛子が入った容器のようなもので、僕たちは、そのスパイスの粒を見分けて、どれが自分との相性がいいかを判断するのだと思います。
ポストモダンな現代思想の世界ではよく、「哲学の社会学化」が言われています。結局、哲学者=自分たちのように「哲学」をやる人が世の中にそんなにいないのではないか、という<不安>が、周りの人は何を考えているんだろう、という<疑問>に代わって、社会学っぽくなるんじゃないかと僕は思ったりしています。
そういうわけで、収拾がつかなくなってきたのでこの辺で筆を置くことにしますが、複数の人間から形成される、人間を超えた何かに思いを巡らすことは、すごく面白いですね!!それこそが「歴史」なのかもしれません。
七月の三連休は、用があって実家に帰っていました。19日の午後にフラッと自転車ででかけて、自転車に乗りながら撮ったビデオをYouTubeにアップロードしました。下は、家の周りの草花に近づいて、マクロ撮影した様子です。祖父が出てきます。
太陽の方角を、日のあたる方を向く花は多い。澁澤龍彦の「記憶の遠近法 新装新版 (河出文庫 し 1-22)」を少し読んでいて、ヘリオトロープという名前の宝石を知り、同じ名前の花があることを知った。物知りな人の本を読んだり、話を聞いたりすることで、ときどき、いままで自分が知らずにきた、並々でない興味を引き出す物事を発見することがある。素晴らしき博物学。
科学者としての規範・倫理・正当性。研究者冥利に尽きる。人類共通の知的財産。真理の探究。科学技術立国。いろんな言葉が浮かぶけれど、つまるところ、科学者というのは何なのだろう。ここ数日、考えている。
自然科学=Natural Scienceの本質が、「いままで知られていなかったような知識を得ること」だとすれば、なにが、今まで知られていなかったことで、なにが、新しくわかったことなのか。知識とは何か。それによって、誰が利益を受けるのか。
自分は、科学者を目指していたときもあったけれど、いまはそんなに強くなりたいとは思わない。時期的には、相当遅い科学離れ。理科系の科目は嫌いではないけれど、よくよく考えてみれば、「思いきり考えること」や「頭をつかうこと」は、多かれ少なかれ、どんな系統の職業でもやることだ。科学者同士の閉鎖したコミュニティにいることはない。もっと、大きなスパンで物事を考えたくなった。
僕は考えることが好きだ。ずっと続けていても、たぶん飽きない。たまに、外を出歩きたくなることはあっても。
右脳も左脳もつかって、仮説思考もフレームワーク思考も抽象思考も、ロジカルシンキングもクリティカルシンキングも、なんでもかんでも取り入れて、思考し続けたいと思う。
Coldplay - The Scientist
2008年7月13日、栃木県の那須塩原市で開催された、日本学生トライアスロン連合(JUTU)主催の関東学生トライアスロン選手権大会を見に行ってきました。写真と一緒に報告します。
距離は、ショートで、スイム1.5㌔、バイク40㌔、ラン10㌔です。

スタートはスイムから。今回は、戸田調整池という、水溜めのようなところで行われました。

11:00スイムスタート。一斉に泳ぎだします。水面が白く泡立ちます。まるで、魚群のよう。

バイクの様子。次から次へと、猛スピードでバイクが通り過ぎます。

そしてフィニッシュ!!だいたい2時間~2時間40分くらいでゴール。
今回は、トライアスロンをダイジェストで送りました。いい写真がたくさん取れてよかったです。応援していて、自分のモチベーションも高まりました。
交通標識って、ときとして、暗示的な効果というか、ふと目に入った時の印象が大きいことがありませんか。
キャリア・パスという言葉があるように、社会に出て、自分がどのようにして、ステップを踏んでいくかを語るときは、「道」のメタファーがよくつかわれます。
「道」があるといっても、実際歩いてみたり、乗り物に乗って移動してみないと、よくわからないもので、地図があっても、道順を理解することと、通りを歩いて目的地に行くということは、まったくの別物です。
「道」は、ひとつの決まり切ったものではなくて、舗装されていたり、未舗装だったり、石畳だったり、泥だったり、いくつかの道があって、それらをとりあえず通ってみて、そのあとでどれが良かったか考えてみることが必要だと思います。
信号もなく一方通行で、車線の幅も十分にある道を突っ走っていくケースもあると思いますが、普段歩きなれた道を、散歩するように、行ったり来たり、同じ道をぐるぐる回ったり、気の向くままに道を選んで歩くのもいいのではないでしょうか。












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