7月 03

習慣をつくる❶

習慣をもつことは難しい。

なにかをすることによって嬉しいことや利益となることがあれば、
それを続けようと思う。
たとえば、おいしいものを食べに、行きつけの料理屋に通う。

なにかをしなければ損をするようなとき、あるいはそのような状況を
わざわざつくったときにも、それを続けようと思う。
たとえば、会員費を払って、ダンススクールに通う。

ある行動の一様式をヒトや動物にとりつづけさせるために、
行動神経科学的なモデルとしてよく使われるのが、
強化学習(reinforcement learning)だ。

分かりやすい言い方をすると、なにかに「ハマる」
ようなしくみを用意することだ。

自分で自分を強化学習するしくみをつくるのはなかなか大変だ。
だから教えてくれる人がほしくなる。
教師あり/なし学習に分かれる。
教えてくれなくても、一緒になにかをする仲間がいるといい。

同じことをずっとやっていると、やがて飽きてくる。
「飽きる」ってどういうことなんだろうと
昔から考えているけど、よくわからない。
そのことを考えるのは飽きないからいいかもしれない。

つまり、新奇性(novelty)がないとつまらない。
ファッションとか、CMとか、TVに出てくる芸能人とか
たったいま旬なものはコレだ、というものがいる。

なにかを長く続けるには工夫がいる。
続けようとしていても、いろいろ誘惑・妨害してくるものがある。
困ったものだなあ。

7月 01

精神

想田和弘監督の観察映画第二弾「精神」をみてきた。
シアターイメージフォーラムにて。

映像はハンディ・カムっぽい。

最初のシーン。
中年の女の人の背中を追うカメラ。
入っていくのは診療所らしき建物。
画面左にその女性。画面右に老齢の医師(ドクター・山本)。
診察が始まる。
女性話しだす。
生きていくのがつらい、という。
<彼ら>が去っていった。
自分が<彼ら>から離れていったことは
これまで何回かあったけど、
<彼ら>から去っていったのは初めて。
すごくつらい。
女性泣きだす。
ドクター・山本うなずく。
診療終わり。
感謝しつつ部屋を後にする女性。

このシーンを見て、どう反応してよいか迷った。

この映画がこのような妄想でいっぱいで
映画を観終わるころには
統合失調症患者の妄想の世界に引きずり込まれたらどうしようか
と不安になった。

でも、想田監督の観察映画が表現しているのは、
<狂気>の常軌を逸した様ではなく、
患者一人一人の言葉を通しての<精神病>という
目に見えぬ対象への接近だった。

「精神」には、実名の施設「こらーる岡山」と医師とスタッフ、
そして患者の方々(映ってもOKな人だけ)が登場している。

精神科というものは、<健常者=healthy people>であれば、
絶対近寄らない、もしくは一度立ち寄ったことが知られるだけで
がらりと周囲からの視線が変わる場所なのかも知れない。

しかし、これは「こらーる岡山」の特殊性に違いないが、
病気になったら仕方ないじゃないか、
ごろごろ横になってもいいからのんびりと治そうじゃないか、
という「のほほん」とした感じに終始包まれているように思えた。

医師と患者というのは、単なる関係性でしかなく、
医師が白衣を着ていなければ
(実際「こらーる岡山」では誰も白衣を着ていない)、
だれが病気なのかわからないと思えた。

以前、フリージャーナリストの野村進が書いたノンフィクション
救急精神病棟 (講談社プラスアルファ文庫)」を読んだことがあった。
それを読んだ印象では、人格もろもろの<崩壊>が迫っていて、
患者は意味不明の言葉をしゃべりたてるし、強制的に保護するほかない、
というような人道的処置とは言い難い場面も出てきたけれど
(同時にそれは野村進氏の筆致の巧みさともいえる)、
「精神」では、十年単位で病気と闘っている患者が多く、
それは急性期/長期療養の違いでもあるのだろうが
まったく異なった印象をもった。

「こんなに薬飲まないとなんですよ」とか
「生活保護うけてて薬代がタダだったのが一割負担になって大変です」とか
「両親がいなくなったら自分で料理作らないといけない」とか
「障害者手帳申請しようかと思ってるんですが」という発言があった。
病気との闘いというのは、ある意味生き方そのものなのかもしれないと感じた。

精神疾患について語りたいことは多くあるけど、
この映画は、患者その人をありのままに撮っている
という点でおおいに成功していると思う。

カメラの前の統合失調症患者の人間くささ、
それは不器用さとか要領のわるさとも言えるかもしれないけれど
そのようなものがリアルな臨場感をもって伝わった。

リアルな妄想、リアルな幻聴、リアルな自殺企図は、
病気になってみないかぎり100%分かり合えることはないだろう。
しかし、妄想のリアルさ、病気が辛くて辛いという現実が
映像として伝わった。

診察のとき、ドクター・山本が紙切れに
何気なく書いて患者に手渡す概念図のようなものが気になった。
そのなかのひとつは、人生が円環構造をとっているのかラダー状なのか
あなたはどちらですか?というものだった。
ドクター・山本が発言する場面は、
想田監督の意向で極力少なくしたようだが、
ドクター・山本の人としての厚みが垣間見られた。
ああいうものをさっと書けるようになりたいと思った。

病との闘いが宗教性を伴ったものになることがある。
想田監督は大学で宗教をやっていたそうなのだが、
ところどころ、仏陀とかマザー・テレサのモチーフがあらわれた。
「癒し」が重要視されるようになったのはだいぶ前だけど、
宗教観のようなものをどれほど前面に出せばよいのか戸惑う。
後半に登場した詩人・菅野さんの言葉や雰囲気や
笑い方がとくに印象に残った。
菅野さんは病気と闘いつつ、<答え>を見つけていると思った。

ナレーションやキャプション、モザイクがないのもよく、
「この人はこういう病気だから幻聴が聞こえるのだ」みたいに
無理に納得を促すことをしていない。

日本は、精神疾患そのものに対する偏見があるし、
精神科医療が引きずってきた陰鬱とした歴史もある。
こういう映画をたくさんの人に見てもらって
いろいろ考えてもらうことも大事だと思う。

映画の後に想田監督が出てきて質疑応答。
さわやかな感じの方だった。

6月 27

neoteny japan

neoteny(ネオテニー)とは幼形成熟のことで、僕がはじめて聴いたのは高校1年のときの学年主任の化学の先生だったけれど、進化発生学的にこどもの姿を残しつつ成体となるという意味だった。

今日は帰りがけに、気になっていた上野の森美術館の「neoteny japan」を観にいった。日本屈指の現代美術コレクションをもつ、精神科医の高橋龍一郎氏の収集から選ばれた現代作家33人の作品群。

最近観にいった展覧会のなかでも、かなりクオリティが高く、絵画・彫刻・インスタレーションと作品の数も十分あり、おすすめ☆☆☆。現代美術プチ愛好家の僕から見ても、重要な作品と作家を多方面から厳選している印象を受けた。

現代美術に慣れない人は、単にエログロを強調させただけでよくわからない印象をもつかもしれない。たしかに血とか臓物とか裸系のタブーに取り組んだものは多い。だからといって敬遠するのはよくない。現代美術(contemporary art)は、最初に作品と接したときの「あ、これは」という感覚を呼び覚ます。僕はいつも作品をつくるときの作家のコンセプトはなんなのかを考えるようにしている。美術手帖読んでいたころもあった。

作品は、1990年代から2000年代までのもの。順路に沿って、90年代→ここ2,3年というふうに並べられていた。

世界的な現代アーティストとして有名になってしまった、村上隆と奈良美智の作品は、初期からカバーしていて、ポップな花とか目玉を書くようになる前の村上隆は、バカボンとか軍隊ものとかいろいろ試していたことを知る。奈良美智のほうは、初期からタレ目で一重の指のない女の子を書いているけど、よくみるとちょっとずつ違っていてやっぱり面白いと思う。

会田誠と山口晃の2人は僕が特に好きなアーティスト。会田誠・小沢剛らの昭和四十年会については、大学のゼミで知って以来。束芋のアニメも前に観たことがあった。

今回の展覧会では、名前を聴いたことがあったけど作品を生で観たことがなかった作家や全く名前が知らなかった作家の作品が半分以上あった。日本にはこんなアーティストもいたのかと思った。

できやよいの絵は知っていたけど、近くで見たら模様が信じられないくらい細かくて、それが小さい顔だったりしておどろいた。名和晃平のガラス玉がくっつけられた鹿がきれいだった。加藤泉(男性)の作品が前から見たくて、あのアフリカ的原始的な頭の大きな彫刻が壁に手を付いている像をみて、滑稽さと不気味さが込み上げた。奈良美智に近いようでかなり遠い加藤泉は今後注目したい。

日本画的な天明屋尚、町田久美の作品もいい。ペンをつかって相当細かい作品を描く作家も多くいることを知った。池田学の興亡記はなんかジブリっぽくて、ハウルとかラピュタを連想させた。伊藤存の刺繍美術。加藤美佳の少女とけものの頭骨。小谷元彦のオオカミのドレス。さわひらきの台所からジェット機を見上げる人々の映像。須田悦弘の雑草。高嶺格の鏡の間。照屋勇賢のゴディバとシャネルの袋の切り抜き。消化しきれない!出店目録買っておけばよかったかも。

西尾康之の「素粒の鎧」の彫刻は、美術館の外からも後姿をみることができるようになっていたけれど、今回一番印象に残った。表面の鱗や指?のような形状がつくるごつごつした異物感がなんともいえない存在感をもっていて、一度見ただけで忘れないインパクトをもっていた。

最後は羅列になってしまったが、まとめると日本の現代アートの独自の発展がみることができてよかった、ということになる。

6月 12

6月の朝

おはようございます。

さきほどWordPress 2.8にアップデートしました!

ながいことブログを書いていませんでしたね。

お詫び申し上げます。

7週(49日)あまりブログを書かなかったのは、

書きたくなかったのでも

書けなかったのでも

書くことがなかったのでもなく

ただ書かなかった

それだけのことです。

書いたことはこうして読むことができます。

ですが、書かなかったことはどうなるんでしょう。

書かなかったことはどこかに残るかもしれないし、

きれいさっぱりなくなるかもしれない。

どちらになるかはどうでもいいことだけど、

どちらになるかはもう決まっているのでしょうね。

書かなかった49日で思ったことは、

意外にも「人間万事塞翁が馬」だったりします。

「因果応報」というと過去と今と未来が

なにかで硬く結ばれているようで居心地がわるい。

ですが、善きにつけ悪しきにつけ「人間万事塞翁が馬」。

いろんなことは巡り巡ってかえってくるんだ

と思っていれば、

<いま>という時分

ちゃぷちゃぷ浮かんでいても

しぱしぱ走っていても

それはそれでいい

ということになるような気がする。

そんなゆるさがあってほしい。

4月 24

リアリズム2

足の中指に腫れ物ができていた―窮屈な靴をはくのはやめなければならない。習慣になっているかのような慣れた手つきで、ポケットからねじ回しを取り出し、彼は腫れ物の芯を取り除いた。そしてそれを慎重に青い色の―夢にも色があるのだろうか?―箱に収めた。傷口から油のついた黄色い紐の端がのぞいていた。そこに紐が出てくることをあらかじめ知っていたかのように少しも驚いたふうを見せずに、彼はゆっくりと慎重に紐を引き出していった。それは非常に長い紐だったが、なんの痛みも不快感も伴わずにするすると出てきた。
(『死の向こう側』、ガルシア=マルケス著)

前回のつづきです。魔術的リアリズムの旗手ボルヘスとともに有名な南米出身のガルシア=マルケスの短編を読んでいます。

つい先日中編の『予告された殺人の記録』を読み終えて、「サンティアゴ・ナサールの殺人」をめぐる時間の順序の入れ替えの巧妙さに唸りました。通常のミステリとは違った緊迫感を味わうことができました。一番「うまい」と思ったのは、語り手である「私」の位置。被害者の友人であり、殺人犯(双子)のいとこでもあるという設定なんです!小説家ってホントによーく考えて文章作ってるんだなと思いました。

そして、冒頭の『死の向こう側』について。こちらは初期の作品ということですが、物語のもつ雰囲気に瞬時に引き込まれていきます。ページ数にして10という、つかの間の読書体験のなかで味わうスリル。そのハイライト(と感じたところ)が引用部分の夢のなかのイメージです。腫れ物の芯をとると出てくる「黄色い紐」。ガルシア=マルケスの作品は「腫瘍」「心臓の鼓動」「神経の緊張」「身体の組織」など、解剖学的用語や生理学的用語が多く使われています(本篇の最後には「アルブミン」という言葉が出てくるほど)。

わたしたち各人にとってもっとも身近でかつ信用できる身体からでてくる不自然で異様なもの。しかしそれはたしかに紐で、紐それ自体に関しては、とかく有害ではない。異様なのは、紐が≪自分の体のなかから≫出てくること。絶対信頼できるはずの自分の体に誹られる感覚。これほど奇妙なものはないでしょう。そしてそれは、暗に無制限に増殖する癌細胞の喩えになっています。この事実にハッとさせられました。

カフカの短編『田舎医者』では、主人公の医師が往診に行った家の男の子のお腹に「花(バラだったような?)」が咲いているのを見つけます。体から出てくる「身近だけれどそこにはありえないもの」という表現手法は意外とたくさんの作家が使用しているものです。舞城王太郎の『ドリルホール・イン・マイブレイン』でも、主人公の陰部に白い花が咲きます。

幻想文学の表現を学ぼうと思いました。