最近レンタルで聞いている音楽。
Animal Collective - Fireworks
The Magnetic Fields- All my Little Words
Arcade Fire - Black Mirror
Battles - Tonto
最近レンタルで聞いている音楽。
Animal Collective - Fireworks
The Magnetic Fields- All my Little Words
Arcade Fire - Black Mirror
Battles - Tonto
季節は変わり、感受性は変わる。
そんな今日この頃です。
国際的にみても、日本人による日本人論を見ても、日本人については、議論ができないとか、長いものに巻かれやすいとか、ネガティブイメージが先行しているように思いますが、日本人がもともと持っている(ように感じられる)感受性の高さについては、もっと評価されてもいいのではないかと思います。感受性を養うものとして、よく持ち出されることは、「季節の移り変わり」がもたらす、身の回りの変化。日本人はこの変化を敏感に感じ取ることができて、それを散文とか歌や俳句で表現するということを、万葉の時代からずっと、やってきたわけです。
僕も、数年前から詩を書き始めていて、書いてない期間もありますが、むかし書いた詩を読み返していたので、気恥ずかしいですが、一つだけのせてみたいと思います。
僕は光になれない。
真っすぐ進むことも
秒速30万キロで走ることもできないから。
何かとヒトと衝突を繰り返す日々。
光になれなくても
光を放つことができたらどんなにいいだろう。陽によって陰はつくられ、
闇によって光はともされる(無題、あるスケッチブックより)
2008年10月4日、さいたまスーパーアリーナにて、RADIOHEADのライブを見てきました。僕がいかにRADIOHEADというバンドに思い入れがあるかは、過去に書いています(こちら)。
正面から見て左側のアリーナ2階席で、スタンドを見下ろすようにして聞いていました。17時会場で、さきにModeselektorが30分くらい演奏して、RADIOHEADの5人が出てきたのが18時くらい。2回のアンコールを入れて、2時間くらいの充実したライブでした。さすがライブ・バンドと言われているだけ、演奏技術が高かったです。本当に長く待った甲斐がありました。僕は数々のバンドのライブをこれまで見てきましたが、今回ほどわくわくしたことはありませんでした。トム・ヨークの憂いのあるボーカル。ジョニー・グリーンウッドのギターとその他いろいろな楽器の数々。コリン・グリーンウッドのベースとエド・オブライエンのギターとコーラス。フィル・セルウェイのドラム。そして、歌詞の詩的な素晴らしさ。曲が変わるたびに、毎回楽器(ギターとピアノ)を交換したり、しゃがみ込んで機材をいじったりするバンドはなかなかないと思います(まさに、”Anyone Can Play Guitar”)。あまり聞いたことがない、”Bangers & Mash”という曲で、トムのドラムも聴けました。
個人的にかなり良かった曲は、Paranoid AndroidとIdiotequeとDollars and Cents。In Rainbowsからは、House Of Cardsが印象的でした。やっぱり、市場原理主義の崩壊とアメリカ経済の凋落が急速に進みつつある今、Dollars and Centsがもっている意味合いが増してくるなあということを考えたりしました。
加えて、カーテンのように天井から垂れさがった布のような照明がとてもきれいでした。ファイバーか何かを使っているのでしょうか。さいたまスーパーアリーナの内部にはじめて入ったのですが、音響がすごく良くて感心してしまいました。2階席にいても、音が全然、減衰・反響しなくて驚きました。逆にいえば、楽曲がスタジオ録音並みの高音質で、えっ、本当にライブ?って思えてしまうほどでした。Tシャツも買えてよかったです。
ReckonerのPVが発表されたようなので、リンクします。
国内最大のファンサイト:IDIOT COMPUTER
海外のファンサイト:At Ease&green plastic radiohead
二週間近く記事を書いていませんでした。ぼくが通っている大学では、9月の終わりから10月の初めにかけて、なだらかに前期から後期への移行が完了したところです。
いろんなことがありました。
情報爆発に関するシンポジウムに行ったり、
横浜トリエンナーレ2008を見に行ったり、
自然科学研究機構シンポジウムを聴きに行ったり、
未知検体実習で夜遅くまで腸管や心臓の収縮を見たり、
実験動物の慰霊祭で献花をしたり、
祖父の一周忌で実家に戻ったり、
ちょうど同じ日にもう片方の祖父が退院したり、
実家の側の草むらの草刈りをしたり、
母親にiPod nano(ひとつ前の世代)を選んで使い方を教えてあげたり、
実習のデータをまとめたり、パワーポイントファイルを作ったり、
レポート書いたり、薬理学勉強したり、
脂質とアミノ酸とプリン・ピリミジン代謝経路を学んだり、
なんというか、もういろいろありました。
たまには、きわめて個人的なことを書いてみたりします。
じつは、「今日何をした」というのは、ビジネス手帳に今年の初めから書いていて、なぜか今まで続いています。記憶の補充と出来事の整理。ひょんなところで誰にあった、とかいうのは思い返すと面白いものです。
ところで、日本で書かれているブログには、二つのタイプがあると言われます。ひとつは、ニュースサイトなどの引用記事。ネタがないものかとネットを巡回して見つけた記事にリンクしてコメントする形式です。もうひとつは、SNS的なプライベートな日記。自分と自分の周りの何人かで完結してしまう時空間での出来事。このブログ(=EXTRA PLANET BLOG)はどちらかというと前者。写真などがメインになっていることもありますが。一方で、欧米に多いのが、思想・政治信条について自らの意見を述べるタイプのブログだと言われます。欧米人らしく、ロジックで自分の言いたいことや考えていることを思いのままに表明するタイプ。日本でも、若い世代の哲学系の人たちや作家業を営んでいる人たちがこのタイプのブログを書いていますが、全体的にみて数は少ないと思います。
僕は、せっかくなので、多くの人に読んでもらえるような、共感してもらえるような文章を書きたくて、レンタルサーバでドメインもとって、Wordpressでブログ執筆をしているのですが、やはり内容が引用や雑感や日記になりがちで、歯痒い思いをしています。とは言うものの、引用は癖になります。どの本を見ても、冒頭から数ページ目には小さく、昔の人の偉大な言葉が書いてありますよね。
“Most people are other people. Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.” - Oscar Wilde
正直に言って、自分で自分の考えを作り出すことは、本当に難しいことです。かの文豪ゲーテのように、珠玉の言葉の数々が湧き出てほしいと何度願ったことでしょう。しかし、ショウペンハウエルは以下のように書いています。
ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついたひとにとってのみ価値をもつ。ただ少数の思想のみが、読者の反響を通じて働き続ける力をもつ。言い換えれば、書きおろされた後にも読者の関心を奪う力をもつ。
(『読書について 他二篇』「思索」より)
何世紀も前から読み継がれてきた書物というのは、その著者自身がすごいというのもさることながら、幾多の文筆家・思想家が著した書物の中から、何世代もの読者の支持を得て、何度も印刷されて、何ヶ国語もの言語に翻訳されて、いわば選別の網を掻い潜ってきました。昔の人がとっくの昔に考えた思想に、自分で考えた挙句たどり着くことができれば、すこしはマシなほうだ、とショウペンハウエルは言っています。引用ばかりに頼っている僕としてはちょっとした救いです。
同じ文章の中で、この思想家はこんな素敵なことも書いています。
現実の国では、いかに美しい幸福、快適な生活に恵まれても我々は常に重力の影響下に動いているにすぎず、たえずこの影響にうちかたなければならない。だが思想の国では、我々は物体ならざる精神であり、重力という必然の重みから免れる。そのため地上のいかなる幸福も、美しい豊かな精神が時をえて自らのなかに見出す幸福には比すべくもない。
思想というものがもっている軽快さと浮遊感。僕が好きな言葉では、アンリ・ベルクソンが言う「生の飛躍=élan vital」。フリードリヒ・ニーチェだと「力への意志」。ヴァルター・ベンヤミンは文学的作品や芸術作品には「アウラ」が宿っているようなことを言っているし、見えなくて重さがないものへの畏敬はいたるところに見受けられる。世の中は、目には見えない形而上学的な物事で騒々しい。
とりとめなくなってきたので、この辺にしておきたいと思うけれど、ブログには、将来のこととか、これからやらなければならないこと・やりたいこと・やってみたいこととか、願いとか、こうなってほしいみたいなことを書いてもいいと思う。
2008年も秋に入り、世界を金融不安が駆け巡っていて、1929年の世界恐慌をある意味超えたらしいことをメディアは伝えているけれど、僕たちといえば、原油価格が下がってガソリン価格も下がるみたいだとか、日本の銀行がアメリカの証券会社を買収してすごいなとか、友達の友達が勤めている外資系証券会社の日本法人が破産申請で大変なことになってるとか、いろんなことを考えている。それを考えているときを除けば、いつもどおり何気なく過ごしている。気温が20℃を下回って寒くなってきたので衣替えをしなければならないし、携帯電話は充電しておかなければならないし、ごみは分別して出さなければならない。6000兆円を超える投機マネーはいったいどこに行ったんだろう??
現実感。自分が生きているという感覚を感じるのは、素晴らしいものに触れて感動したとき。あるミッション系の大学に行くようになって、いままでの自分にはなかった感受性の一部分が開けてきたように思える。できれば毎日感動したい。感動できるものを見つけて過ごしたい。感動したものを覚えていたい。人を感動させる方法を身につけたい。できることなら、一日一人くらいは、新しい人と親しくなりたいと思う。知人の新しい一面を知りたいと思う。自分の新しい部分を発見したいと思う。いま生きている人に残された時間は有限で、身体は一つしかない。「いま、ここ」にしか自分はいないし、「いま、ここ」を生きることしかできない。それでも、僕には僕の個人史がある。僕の家族にも家族の歴史があって、僕の先祖代々にも先祖代々の歴史がある(あ、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を読んでみるといいかもしれない)。それと一緒に、日本史と世界史には、アウストラロピテクスがいた太古から近現代に至るまでの脈々としたストーリーがある。生物の進化史はそれより長く、地球になるとおよそ46億年。(この)宇宙はおよそ137億年。いくらなんでも話がとびすぎではあるけれど、とんでいるのは思考だけで、僕の生物学的な体はどこにも移動していない(地球の自転・公転と宇宙の加速度的膨張を除いて)。「思考」がもっている特筆すべき性質は、さっきも言ったとおり、重さがないことと、飛躍できること。
こんなことを考えていた。
知恵は、これを捕える者には命の木である、
これをしっかり捕える人は幸いである。
主は知恵をもって地の基をすえ、
悟りをもって天を定められた。
その知識によって海はわきいで、
雲は露をそそぐ。
(『聖書』箴言 3.18-20より)
南米コロンビア出身の作家、ガルシア=マルケスの短編を読んでいます。『百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))』(1967)はベストセラーとなり、1982年にノーベル文学賞を受賞しています。1928年生まれ。
新潮社のガルシア=マルケス全小説へのリンク。
http://www.shinchosha.co.jp/topics/marquez/
マルガリート・ドゥアルテは小学校しか出ていなかったが、文学を天職と感じていたせいで、手の届くところにあった印刷物をすべて熱心に読破してきたため、ずっと広範な知識をもっていた。十八歳の時、村の書記になっていた彼は美しい少女と結婚したが、彼女は初めて女の赤ちゃんを出産した後に亡くなった。娘は母親よりもさらに美しかったが、誰もがかならずかかる熱病のせいで七歳にして死んだ。しかし、マルガリート・ドゥアルテの真の物語が始まったのは、彼がローマに来る六か月前のことだった。
(『十二の遍歴の物語』「聖女」、G・ガルシア=マルケス著、旦 敬介訳)
今回は、室生犀星を取り上げてみます。いま僕が住んでいるところとかなり近い、田端に住んでいた詩人です。
雨の詩
雨は愛のやうなものだ
それがひもすがら降り注いでゐた
人はこの雨を悲しさうに
すこしばかりの青もの畑を
次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた
雨はいつもありのままの姿と
あれらの寂しい降りやうを
そのまま人の心にうつしてゐた
人人の優秀なたましひ等は
悲しさうに少しつかれて
いつまでも永い間うち沈んでゐた
永い間雨をしみじみと眺めてゐた(『愛の詩集』、室生犀星)
「雨」という対象からは、「慈悲深さ」が連想されますが、
「雨」といっても、「豪雨」や「台風」や「ハリケーン」となると、話が違ってきます。
水はわたしたちが生きるのに欠かせませんが、
水が雨雲にのって、一挙にまとまって押し寄せてくると、
わたしたちはただただ無力で何もすることができません。
わたしたちはいまだに、この詩人が言うように、
「永い間雨をしみじみと眺めて」いることしかできないんですね。
気候変動=Climate Changeを体感している今日この頃です。
今日は、プロレタリアート詩人の小熊秀雄。名前が気になっていたのだけれど、詩集を借りて写真を見たら、ウェーブがかかった長髪が似合うオシャレな感じの人だった。しかも、40歳になる前に死んでいる。
怖ろしい言葉を
頭を掻きむしって
詩を書く時代は去った
立派な発声法によって
生きた人間の呼吸を吐け
友よ、
労働者詩人よ
詩の古い形式を理解しろ
だが信ずるな
僕はあいつらの
貞操をコジあけて
砂をぶち込んでやった
真理でないものを
真理だと堅く守っていたものにとって
君達も僕のように
暴力者となったらいい
うんと怖ろしい言葉を吐くのだ
たえがたい悲しみを
痙攣的な憤怒を
立派に整理して
吐露することが
科学的な新しい詩人の役割だ
可愛い雀斑の娘が
私達の傍にやってくるだろう
魅力はもうあいつらにないから
あいつらのところには
もう美しいものが
集っていかないだろう
さあ、元気を出して
うたうのだ
呟いてはいけない
口の開けたてを正確にして
生活の歌をうたうのだ(『拾遺詩篇』、小熊秀雄)
ザ・プロレタリアート。石川啄木の悲観とは違い、どこか暴力的で危険で、攻撃性が潜在している印象をもった。
しゃべり捲くれ
私はしゃべる、
若い詩人よ、君もしゃべり捲くれ、
我々は、だまっているものを
どんどん黙殺して行進していい、
気取った詩人よ、
また見当ちがいの批評家よ、
私がおしゃべりなら
君はなんだ――、
君は舌足らずではないか、
私は同じことを
二度繰り返すことを恐れる、
おしゃべりとは、それを二度三度
四度と繰り返すことを云うのだ、
今日は、ウィリアム・ブレイク詩集より。有名な4行を引用。英語とか中国の詩は、規則がはっきりしていて面白い。
Auguries of Innocence
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the pain of your hand
And Eternity in an hour.William Blake
今日も詩を引用します。中原中也詩集より。
僕が知る
僕には僕の狂気がある
僕の狂気は蒼ざめて硬くなる
かの馬の静脈などを想はせる僕にも僕の狂気がある
それは張り子のやうに硬いがまだ
張り子のやうに破けはしないそれは不死身の弾力に充ち
それはひよつとしたなら乾鮑であるかも知れない
それを小刀で削つて薄つぺらにして
さて口に入れたつて唾液に反撥するかも知れない唾液には混ざらぬものを
恰かも唾液に混るやうな恰好をして
ぐつと嚥み込まなければならないのかも知れない
ぐつと嚥み込んで、扨それがどんな不協和音を奏でるかは、僕が知る(『未刊詩篇』、中原中也)
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